郷愁と記憶を越えて

— 「国民の精神的な共有財産」論を考える —

『短歌往来』03年12月号

 

 いま、形のない静かな滅亡論のようなものが漂っている。私自身短歌の未来に対して決して楽観的になれない気分を抱えながら、しかしそれより気になるのはこの不思議な滅亡論に潜んでいる「ある力」なのだ。あらためてくりかえすまでもなく短歌はずっと滅亡論とともに歩んできた。しかし近年のこの静かな短歌の未来への悲観論は何なのだろう。かつての短歌否定論が結果として新しい短歌を生み、新しい批評を開きその世界を広げてきたのとは全く違う種類の、容易に突き詰めにくい悲観論。声高なアジテーションも名指しの批判もない滅亡論がごく漠然と自覚ある作者を覆い、その反動として短歌の確かな居場所を求める動きを生んでいる。私は悲観論とセットで現れる、この短歌の根拠を求める動きを少し注意深く見るべきだという気がしている。短歌の根拠、特定性、本質、そんな言葉で言い表されるものは何を目指すのだろうか?

 こうした状況については、すでに幾度か語られているが、最近印象に残ったものでは今年九月に本誌誌上で行われた松本健一と島田修三の対談がある。短歌というジャンルを越えて広い展望に立っており、その中から今日の状況分析がじっくり語られた座談会だった。その中で松本健一が冒頭で状況分析として次のような発言をしている。

 

「六〇年代から七〇年代頃、歌人と俳人と小説家と評論家が、共通の場所(トポス)で同じ言葉という伝統を踏まえながら切り結んでいるというか、文学シーンを共有していることがあったと思います。その中でも私は、日本の短歌というか歌の伝統が一番基底にあり、国民の精神(エートス)の共有部分としてあったと考えてきました。そういう言葉の伝統の共有財産を持った上で、小説家も評論家も詩人も同時代を呼吸でき、問題意識を共有できたのだと思い ます。しかし、今は歌というものが国民の精神的な共有財産という感覚がひじょうに希薄になっているのではないか。それは一方では∧私∨の感 覚の中に閉じこもってしまった歌人の責任でもあるし、∧私∨を外に開いていかない、∧公∨の場所を失った日本文化全体の問題である、と考えています」

 

 私は松本が短歌の状況を日本文化全体の問題として考えていることに共感を覚えるし、また今日の歌人が∧私∨の感覚に閉じこもり外に開いてゆく努力をしきれていないという点にも自戒をこめて賛成をする。しかし、座談会の前提となるこの発言には少し丁寧にこだわっておきたいところがある。まず、「六〇年代から七〇年代頃、歌人と俳人と小説家と評論家が、共通の場所(トポス)で同じ言葉という伝統を踏まえながら切り結んでい」たのは、「言葉の伝統の共有財産を持っ」ていたからなのだろうか?そして今日の短歌の状況がバラバラなのは「歌というものが国民の精神的な共有財産という感覚がひじょうに希薄になっている」せいなのだろうか?また「歌の伝統が一番基底にあり、国民の精神(エートス)の共有部分」を成していたのだろうか?よく言われることだがこれが私にはほんとうのところよく分からない。私がまず感じるのは、こうした発言の源にまさにそのようであってほしい、という願望が働いているのではないのかということである。

 ごくごくおおまかに短歌史を辿ってみると、六十年代、七十年代は、敗戦からひとつらなりの問題意識の働いていた時代だったと言えるように思う。第二芸術論に代表される短歌俳句否定論によって、短歌俳句のみならず広いジャンルからの議論が集まり、それに応えるように前衛短歌論争が起こり、といった流れを思い浮かべればいいのだろう。五十年代は茂吉や迢空が亡くなって近代短歌の一区切りが終わる。葛原妙子、塚本邦雄、中城ふみ子、寺山修二、岡井隆、といった作者が登場して、大岡信や吉本隆明ら詩人との議論が盛んになっていった。一方で山中智恵子や前登志夫らによって、古代や民俗が新しい形で呼び込まれてゆく。六十年代、七十年代は、その続きと考えればいいのだろう。それらの時間の中で共有されていたのは「伝統」という共有財産であるより、危機意識であるような気がする。あるいは反語的な意味で危機意識が「伝統」を際だたせていたというにしても、それは短歌が戦時下で容易に体制に利用されたような「国民の精神的な共有財産」などであってはならない、という強い短歌再生の意識に支えられていたのではなかっただろうか。

 例えば六十年代に続く前衛短歌論争のもっとも最初にあたるであろう大岡信の文章「前衛短歌の方法を繞ってー想像力と韻律と」を読み直してみる。大岡は最初に「正直のところ、短歌と現代詩とは、現代詩と俳句、小説、あるいは科学書との距離よりもなお遠くかけ離れているというのが、少なくとも若い詩人たちの実感なのだ。共にポエットとよばれるはずの人びとが、少なくとも詩人の側からは、極端にかけはなれ、ほとんど無縁のものとさえ見なされていることは、奇怪至極といわねばならぬ」と記し、その理由を「サンボリズムが日本に入つてきた時から、両者の隔絶は決定的になつた」として近代においてサンボリズムを通過した現代詩と、そこを通過せず「『アララギ』全盛時代」を迎え、自我の獲得をすることのなかった短歌とは接点をもたないと強調する。大岡はこの文章で主に葛原妙子を直接の論敵としているのだが、葛原程度の方法で現代詩を短歌などと近いとは言ってくれるなと迷惑そうな雰囲気である。むろんこうした文章に書かれた短歌への距離感をそのまま鵜呑みにはできない。当時の青年詩人としての自負や、短歌俳句否定論の流れもこうした言説には影響しているだろうし、むしろ意識しているからこのように気負って距離感を強調するのだという穿った見方もできなくはない。この後塚本邦雄との方法を巡る論争で思いがけず議論に深入りしてゆく大岡は、しかし少なくとも短歌を「国民の精神的な共有財産」とは考えていなかったのではないか。そして新しい短歌を創ろうとする若い歌人たちは、当時そのような意識はとうてい抱えようがなかっただろうと思う。

 もちろんこの「国民の精神的な共有財産」論が短歌底荷論のように、あらゆる文芸の裾野として言葉の底支えをする役割を近代以降の短歌が担っていたことを指すならそれは理解できる。近代精神の西洋追随のバランスをとるように、短歌がさながら「故郷」のようなものとして文芸の底支えをしてきたという説はそれなりに納得できる。多くの知識人が短歌を素養とし、また文学的彷徨の果てに回帰する懐のようなものとして短歌を抱え続けたという事実は幾つも挙げることが出来るだろう。しかしそれは、時代を刷新し、それぞれの時代の心と感性の要請によって新たな作品を生んできた短歌の創造力とは全く異なるもう一つの存在感だろう。この問題はいつもいわゆる専門歌人とそうでない人々との間に横たわり大きな溝となったままだ。私自身いわゆる専門歌人に属するのだろうが、短歌が「故郷」のようなものでありつづけた事実を短歌の奥行きとして大切にしたいとは思う。しかしそれだけでいいとはとうてい思えない。この問題は、短歌の創造性に関わって重要である。もし短歌が素直な「国民の精神的な共有財産」であるなら短歌は生きながら郷愁の対象であるような、害のないものとして創造の我が儘と野性を奪われている。まるで生きながら檻に囲われ祀られた稲荷神社の狐のようではないか。そうではなかったからこそそれぞれの時代に新しい時代の創造の器として機能してきたのではなかろうか。実際には短歌は常にこの創造的な部分と「故郷」であるような部分とが併存してきたと言うべきだろう。

 またこの対談で問題になっていたのはそうした文学の「故郷」としての短歌の土台の崩壊である。私はこの問題意識に大いに共感を覚えるし、状況分析として共有しているつもりだ。かつて短歌というひとつの言葉と文化の共同体と信じられたものが現在いくつもに分裂し、それぞれが関わりを持ちにくくなっているという現実。そんな状況の中で島田は「いつとは分からないけれども、日本人の感性や素養の中から歌の韻律や定型、あるいは大和言葉の膨大な森や海は消えた」と語る。都市生活を基盤とする人々、さらにはインターネット文化の浸透などによって、言葉と文化の共同体は現在とうてい簡単に分類できないほど分かれ林立し、さらには互いの意志の疎通が難しくなっている状態だろう。そんな中で日本語を通底するものが消えた、その事が問題だという認識も私はかなり共有する。

 なかでも問題となるのが農村共同体の記憶を抱えた膨大な数の作者達だろう。世代で言えば現在七十歳以上の、短歌を身近な詩形としてきた人々がいなくなったとき短歌は本当に存在しうるのか、というそう遠くない将来の問題が横たわる。この人々は戦前、あるいは戦中からの生活が基盤となっており、戦前の日本の文化に記憶と感性の根を持っている。葱に降る霜や、芋の葉の露がすぐになにがしかの記憶と結びつき、秋の村祭りの笛の音がすぐに思い浮かべることができ、土や動植物の感触を躰で記憶している。こうした人々がいなくなることは短歌人口の減少の問題として以上に言葉の記憶が失われる危機として現れるかも知れない。私はこうした問題意識のうえで「共有財産」の話が出てきていることを理解しているつもりだ。

 しかし、見方を変えればこの農村共同体的言葉の文化が短歌の主流となったのはたかだかここ百年の出来事に過ぎない、とも言えるのではないか。近代アララギは大正期に赤彦を推進者として短歌を庶民の文芸として急速に広めてゆく。その際赤彦の拠り所とした『万葉集』は子規によって「発見」され、明治中期の洋式活版の普及によって「国民歌集」として広まってゆく。そのさまは品田悦一の『万葉集の発明』に詳しい。

 

「国民的な愛着を集めている『万葉集』は、まさに日本の「国民歌集」の名にふさわしい。しばしば〝日本人の心のふるさと〟とか〝日本文化の偉大な遺産〟などと形容されるの もそのためだが、しかし多少反省してみれば分かるように、実は古代の貴族たちが編んだ歌集であって、奈良時代末期に成立して以来、一千年以上というもの、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物だったのである。平安時代の歌人・歌学者や、中世の学僧・連歌師、近世の国学者・民間歌人たちの活動にもかかわらず、一般には書名すら知られていないという状態が、まず明治の中頃までは続いていたと見なくてはならない。」

 

 品田の言うように『万葉集』でさえ、時代の要請によってその性格や役割が創られてきたものだということは一度は考えられてみてもいい。さらには『万葉集』の歌風が「素朴」であり「自然」であると性格づけられたのは当時圧倒的多数であった農村共同体の文化に訴えるという戦略があったからかも知れないのだ。そうした事情で広まった短歌のある性格が農村共同体の崩壊とともに崩壊してゆく、これは大きな歴史の流れからみればあるいは自然なことかもしれない。それはたかだかこの百年くらいの間に浸透したアララギ的世界への郷愁に過ぎないのではないか、と半分くらいは考えてみてもいいのではないか。そういう意味ではアララギは写実という方法とともに記憶の共有、ひいては情緒の共有という仕事まで成し遂げ、いまその使命を終えようとしているのかもしれない。

 ごくごく素朴に近代をイメージするとき、例えば晶子でイメージする時と、茂吉でイメージする時、白秋でイメージする時、その色合いや文化の雰囲気のようなものはまったく異なることに驚く。近代においても言葉の共同体というのは本当はいくつかあったのではなかったのか。アララギの歌人達にとっては晶子の歌はちんぷんかんぷんだったかも知れない。事実、伊藤左千夫はちんぷんかんぷんであることを隠していない。茂吉は『伊藤左千夫』のなかで左千夫が晶子をどのように見ていたかを記している。明星全体に対しては『衒飾虚構、詞調の輕浮にして内容の幻怪なる、一種の妖氣は殆ど眞面目なる人をして近づく能はざるの厭味を感ぜ』しめるものであったから、当初は批評すらする気にならなかったらしい。そしてようやく「與謝野夫婦もその門人等も、近來萬葉集の研究はじめ、その歌風も變化して、冩實的叙景的になちたからして」批評を試みたのが晶子の次の歌についてである。

 

 鎌倉や御佛なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな


『銅像の大佛を美男と感じたなどは、見識どころではあるまい。作者其の人の下劣を露出してゐはせまいか』『此の歌が晶子の本音を露出して最も陋劣を極めたのは、美男の詞にある(中略)男的物體に對し男振りの如何といふより外の感興が起こらなかつたとは餘りに情ないではないか』

 

 そして茂吉自身がこの歌を認めたのはずっと後年になってからである。この批評は、アララギ派と浪漫派の食い違いを現すものとしてよく知られているが、あらためて見てみると、晶子の表現方法や美意識を全く理解できないゆえの異文化に対する生理的拒否である。ここに「国民の精神的共有財産」があったとは考えにくい。むしろ無理矢理「共有財産」とされたものは「萬葉集の研究」や「冩實的叙景的」であることだったのではないのだろうか。短歌に「国民」が結びつくということ自体、近代に特徴的な性格を受け継いでいるかもしれない。私たちは近代アララギが造り上げた短歌世界に慣れすぎているのかもしれないと考えることはできないだろうか。

 同様に『万葉集』『古今集』『新古今集』と歌の源に思い描くものによって歌のイメージは大きく違ってゆく。子規を初めとする近代知識人たちが「国民の精神的な共有財産」として思い描いたのは『万葉集』であった。今日イメージするのはそのどれなのだろう。そしてどれかをイメージするとき、それがある時代のあるスタイルへの郷愁でないと言い切れるだろうか?私たちは常に自分の培った文学土壌の記憶によって文学をイメージし、理想の土台とする。そしてさらにはそれを郷愁の対象にもする。しかしその基点にあったものが常に革新的であり創造的であったことは忘れてはならない。

 例えば郷愁の対象となり易い故郷というテーマについて考えてみたい。


 かにかくに渋民村は戀しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
 やはらかに柳あをめる
 北上の岸邊目に見ゆ
 泣けとごとくに

 

 石川啄木を印象づけるのは、プロレタリア短歌や自然主義表現のさきがけとしての歌とともに故郷をテーマにした歌であろう。尖鋭な方法意識を持ち続け、実験的な作品を作り続けた啄木がなぜこれほど多く故郷を詠ったのだろうか。それはやはり国民感情の普遍に訴えるしみじみとしたテーマだったからだろうか?尖鋭な方法意識を持ち続けた啄木でさえ望郷という、日本人として普遍に抱えている情緒に回帰したかったからなのだろうか?私は違うと思う。こうした故郷の歌は、実は新しく尖鋭な方法意識のうえに詠まれたのではなかったかと感じる。前田愛の『近代読者の成立』によれば、近代の小説における故郷は、『学問のすヽめ』や『西国立志編』が励まし喚起した立身出世主義にかられて上京した明治青年の「孤立感を緩和する回想的社会」の役割を果たしたという。それはごくごく素朴な内面的な故郷の存在感であったとともに、文学の世界にも立身出世とセットになった近代の故郷のありかたを生んだという。

 啄木が故郷を詠ったとき、それは方法としてこのような文学的な流れの上にあったと考えてみていいのではないのだろうか。「村」を抜け出した近代の一つの自我、その表現と抒情を支える装置として、渋民村は引き寄せられたのではなかったろうか。山や川と単純化された風景の中に置かれた名詞としての「渋民村」は印象深く固有性を主張し、北上川の岸辺の柳は啄木の特別な記憶をそのやわらかい色と姿に擦り込まれている。啄木は表現において目に見え、匂いが嗅げ、手触りが伝わるように故郷を詠い、ありありとその風景と生活を回想してみせた。まるでみずからの自我をその風景に擦り込むかのように。近代的な自我を求めた啄木が、分身のように近代に踏み込めない自我を育み閉じこめた場所が故郷ではなかっただろうか。そこでは東京を詠えば詠うほど故郷がリアリティーをもち、故郷を歌い込むほどに東京が浮き彫りにされる、そういう関係が生まれているように見える。極端な言い方をするなら啄木において故郷への望郷の抒情は、近代の都市化の求めに応じてきわめて創造的に有効に「発見」されたといってもいい。

 もちろんふるさとは啄木以前にも数多く詠まれてきた。このくらい大まかな概念になれば、国境や文化を越えてどのような人々にもある程度共通に理解される普遍性ある感情を喚起する。そういう意味で彼が故郷の発見者なのではない。ふるさとと呼ばれた場所が詩歌のなかでどのような役割を果たしているかが問題なのだ。啄木のような望郷は時代を貫いて日本人に普遍に流れている精神(エートス)だろうか?むろん文化の中で培われた心の様式性のようなものはどこかで働いているかもしれない。ことに詠みこまれた山や川や柳の芽などには短歌の修辞の伝統が染みている気がする。しかし、そこを強調して「共有財産」化するとき、啄木の数多い故郷の歌はあの時代だからこそ詠まれた意味を失って漂い出してしまうのではないか。

 今日、何を語りの共通項として思い浮かべたらいいのかわからないバラバラな状況を背景に、何か共有できるものを模索したいという動きは理解できる。しかしその共通項自体がそれぞれの作者が抱え持つ記憶への執着でないとは言い切れない。自らを育んだ文学的土壌、言葉の記憶に執着するのは文学に関わる者として創造の土台である。しかし同時に、そうした執着は愛でもあって、ある時期のある文化や文学の記憶への郷愁という一面をもつかもしれない。もしそうならば立場の違う作者がそれぞれの記憶を大切に抱えており、それをどれほど誠実に高度に語ろうとも短歌の根拠を語ることではないのではないか。今、あちこちで囁かれている静かな滅亡論が静かなまま決して大きなうねりとならないのは、あるいはそれぞれが求める短歌の姿が郷愁や記憶として以上の姿を持たないからではないのだろうか。短歌の根拠を求心的に求めるとき、それは自らの記憶に寄り添いある郷愁を絶対化するということと紙一重の危険を孕む。少なくとも作者である私にとって短歌は「国民の精神的な共有財産」などという大したものでなくていい。いつの時代にもごく少数の人々がこの小さな詩形が生きた文芸として、創造の器として力を持つことに気付いたゆえにこの詩形は生き残ってきた。そのような力を信じたいと私は思う。