時代を励ます健康さ

毎日新聞03年3月23日

 

若い世代の歌集刊行が相次ぐなか、岡部桂一郎の『一点鐘』、岩田正の『視野よぎる』が刊行された。ともに大正生まれ。岡部は今年の詩歌文学館賞を受賞している。

 

 目薬のつめたき雫したたれば心に開く菖蒲むらさき

岡部桂一郎

 不思議なる音して去年の雪が降るきょーん、きゃーん、き ゃーん、きょーん

 

「早死をすると予想されていた私が八十七歳を過ぎるとは」とあとがきに記す岡部はこれが第四歌集となる。自らのペースを守る作歌生活が生んだ歌には、独特の飄逸さと時間感覚がある。菖蒲や雪の幻想のこの世を慈しむような瑞々しさと緊張感。自由な言葉の背後に背筋をしゃっきりと伸ばした大正人の躰が添い、良いものも悪いものも慰撫する視線がある。

 

 どどどどと左に揺れてまた戻る右揺れのとき足をふんばる

岩田正

 不安感募れば寝たまま腕のばし冷たき箪笥の鐶を握れり

 

 岩田は現代に最も関心の強い歌人の一人だろう。しかし、詠われた危機感や正義感は硬直したイデオロギーではない。むしろ何を詠っても懐かしい人間味に昇華してゆくと言った方がいいだろう。右に行くまじと足を踏ん張り、一方で不安に駆られて箪笥の鐶にすがる。虚飾なく自分を投げ出し時代を問おうという信念が滲む。闊達な精神が生む闊達なリズムが口ごもりがちな日本人を励まし叱咤するようだ。

 若い世代が実感や体験を欠いたまま言葉を手探りし、漠然とした不安を背負うのに対して、岡部や岩田には根本的な健康さがある。戦争も繁栄も躰で経験し、心の襞に蓄えてきた世代だ。その経験の厚みと余裕が自ずと言葉に滲み、自在さやリズムを生んでいる。技巧のみでない言葉、身体を伴った言葉が求められるいま、この健康な言葉が説得力を持っている。