いま、愛の歌 3

— 賢治の片思い —

読売新聞02・9・22

 

童話や詩に比べて知られていないが、宮沢賢治は短歌にも深い愛着を持っていた。賢治の文学活動は短歌を入り口とし、また絶筆としており、歌集を編むことは夢だった。それにも関わらず賢治の短歌が目立たないのはなぜだろう。

 

 われもまた

 白樺となりねぢれたるうでをささげて

 ひたいのらなん    

宮沢賢治

 

自分も白樺の木となって捻れた腕を捧げ、空に向かってひたすら祈ろう。この歌は賢治の抒情質をよく表現している。賢治の文学には常に祈りの感情が働いている。それは彼が信仰していた法華経を越えてさらに独特の愛への希求を感じさせるものだ。彼の祈りには、人類や世界、宇宙といった言葉が似合う。

そして彼の愛が純粋であればあるほど現実離れしてゆく、いわば壮大な片思いなのである。この片思いが短歌の微妙な機微をすり抜けてゆく、そんな気もする。

例えば斎藤茂吉ならどう詠っただろう。茂吉は決して「われもまた」などとは詠わない。「われこそは」だろう。そしてたぶん「捻れた腕」を凝視し、白樺とじっくり問答するに違いない。少なくとも賢治のような観念への片思いなどはしない。

結果的に茂吉は短歌に愛され、賢治は片思いを続けた。短歌の生理が賢治の何かを拒むのだ。しかし私は賢治の不器用な歌がときどき恋しくなる。そしてあらためて思う。短歌とは何なのだろう。