「自然」創造の痛ましさ

「短歌研究」09年5月号掲載

 

 実家のベランダから阿蘇山の中岳が見える。左に峻険な根子岳、右に煙を吐く中央の噴火口、中岳が見える位置だ。夏の夕暮れ、中岳のま後ろに太陽が沈む。逆光となった山は黒い煙をたなびかせ、あの山の向こうにはもうあの世しかあるまいと思われる。ビール片手に眺めているとよく父がやってきた。この景色をよく覚えておけ、と言った。亡父はいま、あの山の向こうにいて、いっそうあの黒い火山を厳粛な懐かしいものにしている。

 

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 「自然」と呼ばれるものを私自身はあまりうまく理解できていないように思う。それは、近代の必死の努力によって描き出された抽象だ。人間と「私」を彫りあげるために、近代の人々は壮絶な努力によってその鏡であるべき「自然」を創り出した。

 例えば王朝時代に「自然」があったかというとたぶんなかったのだろうと思う。もちろん今日よりはるかに豊かな「自然」に包まれながら暮らしていた王朝時代の人々にとって、「自然」は私たちが今日そのように呼びかけるような向こう側のものではなかった。飽きるほど詠まれた山川草木、花鳥風月、雨や霰や雪などは、即ち、自らの心を表現する表象であり、あるいは心そのものであって、雄大に広がっている彼岸のパノラマではなかったはずだ。私たちを包んでいるこの世界が「自然」になるためには、人間の意識の方が大きく変化せねばならなかった。

   くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る


 「私」の眼で、「写生」されたこの薔薇には、近代の黎明期において「自然」を創り出そうとする心意気が籠もっている。「二尺」を「私」の眼の証としつつ、丁寧に描写された薔薇の芽には、近代という時代を伸び出ようとする「自然」の姿がある。そこには仮想敵とした「古今集」の技法も見えながら、しかしこの薔薇の芽は、「私」の眼の在処を保証するという重要な役目を負っていた。他ならぬこの「私」が「見る」こと。私たちを囲むこの世界が「自然」になるためにはこの新しい装置が必要だったのだ。

 近代、そして現代もなおこうして創造された「自然」の描写は主要な位置を占めている。小説や絵画においても事情は同じだったのではないか。それはまるで、結局実らずに終わった「私」の成熟の代償であるかのように、慈しまれ、執念さえもって見つめられ続けてきたのだ。映すべき「私」そのものは形を成さぬまま、その鏡たるべき「自然」をひたすらに磨き続けた日本人の執念を痛ましい思いで私は振り返る。

 そうした痛ましさと涙ぐましさの傍らで、例えば次のような歌もある。

  春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕

『桐の花』北原白秋 


  山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

『別離』若山牧水 


 白秋の初期、牧水の初期においてしばしの間現れたこの不思議な世界との融和の感覚は一体何だろう。「な鳴きそ鳴きそ」と呼びかけるのは誰か。もちろん作者だが、そこには近代が求めたような明確な「私」の輪郭への志向があらかじめ無い。牧水においてはもっと典型的に外界と自らとは溶け合って混沌としている。「私」と「自然」とは向き合うのではなく、呼びかけあうような関係とでも言うのだろうか。これをアニミズムなどと呼べばまた古代の遺物になってしまうが、むしろ、ここから眺めれば、近代の「自然」の創造の方が特殊だったという気がする。

                  *

 今も帰省のたびに眺める阿蘇は私にとって何だろう。あの山は父がいなくなっても、母がいなくなっても、私が居なくなっても、さらには人類がかき消えたのちにもあそこで夕日を沈めている。それを思うとほっとする。

自作三首

大欲のこころのやうに太陽の輪郭ふるへ南国しづか

五足の靴の旅は阿蘇にて果てにけり五足の靴を呑みし大阿蘇

父恋ふるはこの世のほかの恋なればほのぼの燃ゆる火の山の裡