<おばあちゃん>を連れて

渡辺松男と現代(「かりん」99.11)

 

「太陽と柘榴と花」(「かりん」99・12)において、私は今日の<私>の在り方についての不安を述べた。ここでは繰り返さないが、いま、大きな時代の転換期にいることを感じながらそれではどのようなあり方が可狽ネのかを今一度手探りしてみる必要があるように思う。<私>を突き詰めた先に待つものが<私>という密室ではないかという不安、歴史性、社会性などの猥雑を排除した真空の空間に開かれる言葉が読者との共同性や他者への手がかりをなくしつつあるのではないかという危機感は、対極にある共同体のイメージによって炙り出されたものだった。この漠然とした共同体のイメージこそは実はとても微妙であり、短歌が近代以来積み上げてきた問いを一気に無に帰しかねない危ういものを含んで揺れている。例えばこの共同体を<日本人>という手頃な記号に囲い込むとき仄見える短歌の限界、日本人の心のふるさととしての短歌という嵐闥イ和、このようなわかりやすいところへ共同体の概念が導かれることを私は怖れる。どんな共同体をイメージするのか、そもそも共同体とは短歌にとって一体何なのか、もう少し踏みこんで考えてみる必要があるかもしれない。

 

 畦に座り口あけているおばあちゃん満州は日の沈む方角

『泡宇宙の蛙』渡辺松男 

 黒内障よりおそろしきことのひとつにておばあちゃんの夢を知らない

 

 おばあちゃんお寺なんてみな嘘ですねミトコンドリア・イブのおばあちゃん

 

 渡辺の「ミトコンドリア・イブ」一連は近年の短歌を見慣れた者にとって強いインパクトを持つ一連だ。モチーフにおばあちゃんを選ぶということがまず驚きであるし、そのおばあちゃんの視線に自らの視線を合わせようとする試みもまず見当たらないものだ。しかしこれは安易な弱者への思いやりやヒューマニズムなどから発想されてはいない。むしろ<おばあちゃん>の呼びかけにこもる微かな毒が読み取られるべきだろう。

 一首目、時代から忘れられ田んぼの畦道に取り残されたおばあちゃんの視線を辿って見える満州という歴史の彼方の地。夕日のイメージに導かれた満州はおばあちゃんの記憶のなかで過去の栄光の地として蘇り惜しまれている。人の心にしまわれた記憶の理不尽なのであり、歴史的理解とのズレや溝がおばあちゃんの存在とともに痛ましく浮かび上がる。二首目では、<おばあちゃんの夢>などというおよそ現代が注意を払わないものが<黒内障>の比喩を得て深さを持ち始める。あらゆる物をなぎ倒して前進してきた時代は<おばあちゃんの夢>などに気づいたら恐ろしい失速を始めるのではないか、この<夢>には足元の暗渠のような深さが感じられる。三首目のミトコンドリア・イブは、この歌の中では厳密な意味は持たないだろう。人類の祖先と言われる少数の女性たち、その一人に例えられるおばあちゃんだが、ミトコンドリアまで遡ることで歴史も記憶も無効となるところまでおばあちゃんを追いかけ追い詰める執着が印象的だ。<お寺なんてみな嘘ですね>と語りかけられたおばあちゃんはこのとき、お寺や歴史などより遥かに大きな存在と化している。

 この一連の<おばあちゃん>という呼びかけはあくまでも優しいが、なにか落ち着かない気分にさせる過剰なものを含んでいる。浅薄なヒューマニティが感じさせるのとは全く異質な居心地の悪さである。<おばあちゃん>と語りかけることで閉じ込めてきた時間に触れ、過去というパンドラの箱をあえて開くようなザラつき、<おばあちゃん>が繰り返されるたびに、<おばあちゃん>から生まれた私たちのなかに消せない時間と過去とが頭をもたげるのだ。<おばあちゃん>は呼びかけられるたびに無用者として田んぼの畦に居ながら私たちに痛みを呼び覚ますことになる。<おばあちゃん>は忘れられてきたゆえに奇妙に木霊し、乱反射しながら私達の背後を問い、忘れられた共同体を浮かび上がらせる呼びかけなのだ。

 誤解を恐れず言えば渡辺松男は古いのだ。もうとうに無用になったと思われていた土壌から忽然と現れ、ゆったりとした歩幅で現代と思われていたものを跨いでゆく。泥だらけの登山靴に首に捲いたタオル、という出で立ちで。ここ諸Nあまりの言葉の繁茂、豊かさと空虚に傷ついた<私>が見なかったものを見、うち捨ててきたものを力としている。

 

 土のなかの無数の邑が笑うなり掘り起こされてうれしげな邑

『泡宇宙の蛙』 

 

 この邑とは何だろう。掘り起こされた蟻塚だったり、石の裏に眠っていた団子虫だったり、いきなり土を剥がれ光に晒されて慌てふためいて逃げ惑う小虫の集団を考えればいいだろうか。それとももっと小さな菌糸類や目に見えない細菌やバクテリアの集まりを考えればいいだろうか。ともあれ、土の中には無数の邑があり生き物は寄り添って生きており、私たちはそれに気がついていない。生き物たちは掘り起こされることなど迷惑千万に違いないが、<うれしげ>なのは掘り起こした<私>の喜びの反射であるかもしれない。そしてさらに言えば、近代から現代へ、失われてきた<村>がその姿を微小動物の世界に姿を変え、土の下から現われたようにも見える。<邑>は小暗い<村>であることを避けて注意深く選ばれた言葉であり、地中の微小な世界に還されることで不思議な喜びとして再発見されている。しかし、どこかこの歌もつゆがんだ感じ、奇妙にねじれた喜びが気になってもいる。

 この歌と連動するように次のような歌がある。

 

 むっすむっすとこんにゃくだまは地に太りそよ近代のあらざりし国

 

渡辺にとって地中は実にいろんなものが蠢いている異界だが、この歌ではコンニャクイモが元気だ。地中にあって無骨な姿のイモが屈託なく元気に育つ。まるで前近代のように。地浮ノ何があろうと一度土を掘り起こすと何事もなかったように前近代の顔を出す国、近代のなかった国という認識はけして甘いものではない。近代への懐疑がそれほど単純に前近代への肯定に繋がってはいない。この百年が何であったという問いが楽しげなこんにゃくだまの発育の影に沿っており、微妙な屈折が沿っていることは見逃せないだろう。

 <おばあちゃん>に対してであれこんにゃくだまに対してであれ渡辺の中にはごく自然に備わった呼びかけの感覚がある。言葉がけして孤独ではなく何かに繋がれているという健やかな感覚が彼の世界を支えていると言えるだろう。現代が個の世界を極めることを競ってきた一面があり、<アーティスト>を量産した時代であるとするなら、渡辺はどこかそれをくすぐったく思っているふしがある。あのこんにゃくだまの健やかさには、近代の<私>の不徹底を笑い、地中から生きなおす気分もこもっていよう。彼の<私>はもっと透明で自在であり、むしろ<私>を限りなく消すことによって言葉の向こうに連なるより大きな何かに繋がれようとしているように見える。

 

 白鳥はふっくらと陽にふくらみぬありがとういつも見えないあなた

 

この歌の<ありがとう>がそこに見える白鳥のふくらみを透過してなにか遥かなものに向けられていることは容易に読める。造物主のような絶対的な存在、神、何かそんなものを感じさせる。同時にこの言葉は自ずからふっくらとふくらんで浮かぶ白鳥のように膨らみ出た真心のようなものであり、どこか孤独な幸福を思わせもする。<ありがとう>は、限りなく遠い他者に向けられながら、同時に自らの内の孤独な告白でもある。しかしそれが感謝という形をとるとき言葉は遠い他者へ向けてのベクトルを帯びる。言葉が孤独のうちに燃焼するか、他者への放物線を描くかの差は微妙であり決定的でもある。造物主や神との契約によって救われる<ありがとう>ではなく今ここにいる<私>の全裸の喜びと哀しみを晒すための<ありがとう>である。

 このように、渡辺の歌に見える共同体意識とは固定した共同体を指すものではない。時により場合によって変化し、生命単位で、人類単位で、国単位で、家族単位で、ジェンダー単位でと自在に変化を見せる。共同体意識というよりは言葉によって呼びかけ得る<他者>というくらい漠然としたものだと言ってもいい。しかし、その<他者>こそは見失われてきたものであり、渡辺の世界が衝撃力を持つのは何よりも自らの内部に、背後にその他者が手付かずで眠っていることを明らかにしたことによる。土の中の前近代も、白鳥の彼方にいる見えない誰かも、おばあちゃんも、実は皆近代以降の歴史が見ぬようにしてきたものばかりだろう。渡辺はそれらが自らの身辺に、そして内部に棲み、言葉を待っていることに畏怖を感じている。その怖れの感覚こそが見えぬものに<他者>としての形を与えるのだ。<おばあちゃん>を連れてゆくとき、見えがたい現代はその輪郭を思いがけず現す。そのそのとき共同体とはけして閉じてゆくものでもなく<私>を固定するものでもない。むしろ変幻自在な<私>を生んでやまないものだ。