虫歯的文明論

02年3月 No.1

 

たった一本の虫歯のために足かけ二年歯医者通いをしている。意を決して歯科医院の正門を潜ったのが、昨年の春。夏に「来週神経を抜きます」と言われて怖くなり、歯科医院のある通りに近づけなくなって半年が過ぎた。あるとき雑誌で見た中井貴恵のすごい歯並びに感心して再びデンティストの裏門をくぐったのが今年初め。「このまま放っておいたら脳まで穴があく」と怒られ、「こんな患者は初めて」と呆れられて以来まじめに通っている。

 しかしどうしてこんなに放置する、というかサボるというか故意に忘れることができるのか自分でも不思議でならない。忘れもしない五年前の冬、珍しく小豆などを焚いて見ようと思い立った。けど、炊けた小豆は何だか面倒で食べる気にならない。捨てるにはもったいなく、食べるにはタイミングを逃し、時期が過ぎ、そうして一年あまり・・・・。小豆は化石となって鍋ごと捨てられたのでした。掃除も料理も、やるときはけっこうやるのだが、どこか一点汚点を残してしまう。半年前、冷蔵庫の掃除を徹底的にやったときは人参を捨てそびれ、人参やつれ果てた仙人となってこの前発見されました。

 つまり私はこういう影のある人間なのである。しかしこういう人間は累々といたと私は確信をもって言える。もし、こういう人間がいなかったなら、ゆでた大豆は湯気の立つまま食されて納豆にはならなかったし、牛乳はチーズにはならなかった。葡萄ジュースはワインにならず、ご飯は酒にならなかった。

 栗鼠は冬籠もり用に生めた木の実の何割かを必ず忘れてしまう。埋められた木の実はそこで芽を出し森になる。栗鼠に備わった天然の英知は私を選んで宿り、虫歯治療に悠久の翳りを添えている。つまり私のようなタイプの人間がいたことで人類は文化の恩恵にあずかれたのである。感謝せよ。