葛姫

2002/6, No.5

 

九州の実家を出てから二十年がたった。あちこち彷徨ってきたが、少し長く住めそうな場所を探し始め、ほとんど目を閉じてここ、と決めた。己が経済状態に合った場所に、いわば追いやられるように棲む、都会に住むというのはそういうことである。

 新興の住宅地であるここは、以前は中規模の町工場と、山林とが交互に場所を分け合う殺風景な土地であった。駅近くの古い住宅街はしっとりと落ち着き、それなりに風情もあるが、ここはそれぞれの家が四、五年単位で移ろう流行を張り付けて肩を寄せ合っている。駅からバスでうねうねと二十分ほども狭い道を縫って辿り着く。

 当然まだ空き地もあり、我が家とその並びの建て売り住宅の裏側は山林である。山林の向こうから金属を加工する重機の音が聞こえてくる。住宅街の表通りはプロバンス風だったり、地中海風だったり、アメリカンカントリー風だったりするが、裏の山林は荒れ果て、そこに雑草が鬱然と生い茂る。表通りべて極端に愛想もなく安っぽい住宅の裏側は、雑草と雑木とが本来の住人である。ことに雑木を払われた空き地には葛の進出がすさまじく、この蔓草は雑木や他の雑草と領土争奪戦を繰り返している。

 私はこの勢いすさまじい葛を葛姫と名付けて密かに畏敬している。冬、雑木林が枯れ果て、閑散とした林は夏の勢いを証すように葛の蔓だけが木々に絡まって寂しい風景となる。その蔓を見える限り切り払い、これでもう来る夏にはすっきりとした林になるかと思いきや、春が過ぎる頃から葛姫は地中からするすると這い出てくる。一度這い出たその勢いは止まることがない。

 昨日敷地を仕切るフェンスに届かず宙をさまよっていたはずの儚い蔓の先は今朝見るとしっかりと絡まっている。そして翌日にはフェンスをぎゅっと引き絞る。同じ勢いであちらこちらの空き地を占領し、葛姫は大らかに青空を掃く樺の木に絡まり、巻き絞め、楢の木へと渡りそこを覆ってしまう。窒息しそうになった木々はあちらこちらで低いうめき声を上げ、風が吹くたび軋んで窮状を訴えるが姫の耳には届かない。夏中、苦しげに陽光を浴び、あるいは光りを求める木々を覆い、柔らかな胸で押し倒した葛姫は、秋が近づく頃誰よりも涼しげな花をつける。紫の花序を立て、風を楽しむそのさまは志を果たした者のように静かだ。

 今年すでに何本の蔓を切ったか分からない。切っては投げ、切っては投げる林の奥から這い出してくる葛姫は、やはり私をめがけて伸びてくる。いつからこんな怒りに似た力を蓄えたのか。蔓を切りながら、私は本当は葛姫の感情に気づいている。一番怒りに近い寂しさ。九州の故郷ではさまざまな雑草の中をほどよく匍匐する控えめな植物であった彼女は、ここへ来て名乗りを上げた。そしてたぶん私が何かを失うたびにその空白を埋めるように繁茂するのだ。

 私は何を失ったのか。子供時代を終え、名付けることを始めた人間は名を持たぬものがなくなるまで名付け続ける。葛姫の狂ったような勢いに追われながら、私は名付ける事を止められない者のひとりだ。故郷と名付けたとたんに滅びた故郷は空き地になっている。そしてさらに空き地は増え続け、私はここにいる。

 葛姫はそこを何で埋めればいいのかよく知っているのだ。怒りに似てゆく寂しさ、そしてそれを上回る生命力。毛深く丈夫な蔓で覆い尽くされた空き地、せいせいと風を受ける大らかな葛の葉はときおり裏返り、くすりと笑う。