歌集「青鯨の日」

著者: 川野里子 発行: 砂子屋書房

 

30才から37才までの作品。
二年間の米国カリフォルニア州での生活、帰国という文化ギャップを背景としています。
1997年9月刊。

 

 短歌のページ に抄録を掲載しています。 

 

あとがきから

これは『五月の王』に続く私の第二歌集となります。1991年から1997年の作品の中から未発表作品を含む三七六首をえらび一冊としました。この間の時間から、・に近作を置き、・以降をほぼ編年順に構成しました。時間的な流れとしては・・・・・ということになります。

 この間、一九九一年からの二年あまりを私は太平洋を挟んで向かい合う位置にある、めっぽう日差しの明るい街で過ごすことになりました。霧と猛烈な太陽とが入れ替わり立ち替わり現れ、世界中から難民や出稼ぎ労働者が集まる街。米国でありながらスペイン語の名前を持つ、なかばメキシコのような街に棲みました。パロ・アルトといい、高い木を意味します。不思議に私にはアメリカに棲んだのだという自覚がありません。幸か不幸か私の語学力は、着いたばかりで豊かな大陸に驚き、きょときょとと戸惑っている移民や労働者たちとちょうど同じほどだったので、わたしがつきあい得たのも終始そういう人々でした。したがってわたしにはアメリカの何たるかを語ることはできません。けれども、そういういわばアメリカ社会の最下層の人々の、何も持たぬ生き様はなぜか私にとってなつかしく、どこかに忘れてきてしまった生活の原点のようなものがしきりに思われました。それはときには父母の、あるいは戦後の日本の懸命な生き様もこうではなかったかと感じさせられるものでした。

 自分を覆っていたあらゆる枠組みが揺らいでいたこの時期、一時は歌から遠ざかることも考えましたが、そうした物想いもあるいは歌への愛憎の振幅のひとつではなかったかと今は思えます。自分を囲んでいる言葉や文化や家族やそのほかあらゆるものが、永遠に不変なのではなく、川のように雲のようにその内実や形を常に少しづつ変えながら見知らぬところへ流れてゆくということは、畏怖に近い希望と好奇心を呼び覚まします。

 タイトルとした青鯨は、BLUE WHALE、シロナガス鯨の直訳です。太平洋岸を回遊して北へ向かうという鯨を見るために何度も海へ通いましたが、鯨の姿をみることはありませんでした。あてもなく海を見つめてすごす長い時間、しばしばその彼方の日本を思うとかすかに胸が痛かったのを覚えています。どんな種類の痛みだったのか、なぜなのかはいまもよくわかりません。一冊を通じて日本の内と外からその痛みについて歌いたいと願いました。

 集中、「青鯨の日」一連は発表をためらうまま手元に置いておいたものです。全体の雰囲気を考え思い切ってここに収めることにしました。パロ・アルトで知り合い、またそこで失った日本人青年がモチーフとなっています。彼の面影にはいつも私がまぶしく思う人々の姿が重なってなりません。ここに故、大心池俊哉さんの名前を記して祈念といたします。