共通の場

大辻隆弘 / 「未来」03年4月号

 

「短歌WAVE」第三号所収の小山鉄郎「彫り残された『共通の場』」はすばらしい評論だ。川野里子の評論集『未知の言葉であるために』を題材としながら、現在の短歌の状況を鋭く分析しており、一読、感銘を受けた。

 川野のこの評論集について、私は以前、率直に疑問を呈したことがある。当初、川野のなかにある解釈共同体への憎悪が何に由来するのか、私にはよく分らなかった。短歌の共同性に惹かれながら、それを憎悪する川野の矛盾が、私には奇異に感じられたのだ。

 小山は、川野のこの相反する志向の根源に川野特有の「版画的思考」を見る。彼は、日本的美を強調した川端康成と、日本文学の普遍性を強調する大江健三郎の両者を同時に否定した「韻文世界と世界文学の交差点」(川野)を題材に、川野の「版画的思考」を次のように指摘している。

 

『川野は、批評対象の美質を紹介しながら、大江も、川端も、否定して前に進んでいくのである。このアプローチの仕方こそが私が言う版画的思考なのだ(略)。版画は逆に刀が彫り残したところに表現される形が現れてくるのである。川野は大江を版木から彫り落す。川端を彫り落す。その両者の間に彫り残されたものこそが、今中心を失ってバラバラとなった〈言葉〉にとって、川野が再構築を目指す「共通の場」なのである。』

 

 小山がこの「版画的思考」を高く評価するのは、川野のこの思考が、さまざまな価値観が乱立し、心や規範を失った現在の言語状況に対する誠実な対処の仕方であるからだ。

 九十年代以降の短歌に限っても、中心や規範が失われ価値観が乱立する「なんでもあり」の状況に陥っていることは誰の目にも明らかだろう。それにどう対処してゆけばよいか。もう分らなくなってしまっている。

 穂村弘のいう「わがまま」は、このアナーキーな状態をとことん肯定しようとする立場だろう。それは共通理解の場を放棄し、自分たちだけの小さな空間に閉じこもることを必然とする。また一方、高島裕の立場は、このアナーキーな状態を否定し、新たな「伝統」や「規範」を信奉しようとする立場だろう。彼は、それが幻であるにしろ「伝統」や「規範」を造り出し、それと一体化して「個」を超えようとする(私の立場もこれに近い)。「共通の場」を否定するアナーキズムと、「共通の場」を捏造するショービニズム。そのふたつの志向の間でいま歌人たちは揺れている。

 川野はそのどちらにも与しない。アナーキズムを否定し、ショービニズムを否定する。彼女は「共通の場」への希求を放棄しようとはしない。また、「共通の場」を捏造し、そこに個を一体化させることも許しはしない。否定に否定を重ねることによって、個と伝統が両立し、共通理解が可能となる「場」が見えてくるのを、彼女は我慢づよく待とうとする。私は小山の文章を読んではじめて、そのような川野の意図が分ったような気がした。

 が、現時点において、そのような新たな「共通の場」が彼女に見えているか、というと、答えはノーである。あるいは存在しないかもしれないその「場」が見えてくるまで、川野は忍耐づよく模索を続けるしかない。

 それは、苦しい、果てのない消耗戦である。川野里子はそれに耐えている。