1-文体について

批評会/川野里子

 

批評会では非常に多く文体をめぐっての意見が出されました。これは私にとって大変重要な問題であり、興味深いお話が多く出されました。

 穂村弘さんの「欲望が弱く、何かをうち立てていこうという意志が弱い」という意見は穂村さん自身の歌論を背景にした印象に残るものでした。この「欲望」をめぐってその後も考え、また友人の女性歌人達と話しました。その中で私自身にとって明らかになっていったのは、「欲望」にはこれが欲望だと語って意味のあるものとそうでないものとがあるということです。見晴らしの良い草原に突出した溶岩の塊のような明瞭なものと、未だ地中に潜んだまま液状にくぐもっている溶岩の差でしょうか。例えばフェミニズムでこの世界を突破したい、というような欲望を私が示せば分かりやすいのでしょうが、わたしはそのような名付けられ、図式化されたものに違和を覚えます。場合によっては欲望という言葉自体が借り物になってしまう危険もあるでしょう。

 あえて言えば、織物を織るときの横糸のように一本の糸を延々と織り込め続けるような、というのでしょうか。ある時は模様となって表に出、あるときは殷々と織物そのものの質感となって沈むような切れることのない横糸。そのようなものとして沈める欲望というのがあるような気がするのです。特に女には欲望を欲望として表現することが許されてこなかった歴史があり、女ゆえの独特の欲望の抱え方表出の仕方、というものがあるのではないか、と思われるのです。私の書くものは良くも悪しくもこのような横糸であらゆるテーマを繋いで織り込み、自分の織物にしてゆくようなところがあります。対象に対して共寝して寝首を掻くような添い方をぎりぎりまでしてゆくことが私の希望であり、スタイルです。この文体の可能性をもっと試してみたい、と思うのです。

 このような私の文体への願いとどこかで接点を持っているのが佐伯裕子さんの話だったと思います。普段接している私が「民族だの国家だのという言葉で詰めようとすると遠い目をする。そこまで詰めるな、というサインを出す」と言う話。「山の頂上まで読者を連れてゆくけれど、頂上に着くと、ここじゃなかったかも、と別の山を指さす」ような、殷々とした文体であるということ。このお話は私の誤解でなければ、私の文章が明確な結論を目指すより、文体そのものに主張や願いがあるような書き方をしているというご指摘だったように思います。そしてそのことは私にとって大変嬉しい解釈でした。このお話と重なるのが、小山鉄郎さん(共同通信)の「川野の文体は、版画を彫るときのように、彫り込んでゆく文体。彫り込んだ部分自体は影となるが、彫り残した部分に像が浮かぶ」というお話でしょう。

 また、この事は別の角度から水原紫苑さんが話しています。田中貴子の『悪女論』を引きながら、「女が書くと言うことにはどこか身の丈に合わない衣服を合わせようとして無理に着ているようなところがある」のであり、私の文体が男性にわかりにくいとすればそこに女性の書き物をどう創ってゆくかと言う問題が重なっている、ということでした。後日、さらに水原さんとこの事について話す機会がありました。彼女の承諾を得て、そこでの話をまとめると、「川野の文体は近代の男性達の創ったような論理で押す文体でもなく、またかといっていわゆる女文体というようなものでもない。男性の創った論理的な文体を撓めながらその隙間に襞をつくってゆくという第三の道を選んでいるのではないか」ということになります。小島ゆかりさんの発言もここに重なるところがありました。「いわゆる評論頭の書き手ではなく心を感じさせ、最終的には自分の歌に刺さってくる問いとして書かれている体温がある」という指摘は嬉しく、作者でありつつ評論するという不分明で隠微な関係をむしろ積極的に生かしたいと考えてきた私を励ましてくれるものでした。ここに花山多佳子さんが牧水論について語っていた、「牧水の歌は川野の歌にどこか繋がるところがあり、牧水を語りつつ自分が重なっている」という指摘を加えるのはやや我田引水が過ぎるかもしれませんが。

 今日、女性が書くことは当たり前になったと思っていましたが、あらためて考えてみると、そのスタイルや文体というものは特に語られてこなかったかもしれません。今回私の文体に対して女性の側からは読みやすいという共感が多く、男性の側からは難しいという声が多かったのは大変面白いことでした。私の文章は、一見論理的に見えながらしかし、多分に情緒によって繋がっている文章でもあることを自覚しています。むしろ情緒による飛躍で通したいものを論理によって補強するふりをしているというほうが正しいかもしれません。最終的には自分の書くものが評論という名前でなくても全く構わないと考えています。そのことがこれだけの方々によって語られたことに大きな勇気を与えられました。