批評会/川野里子
テーマについては限られた時間の中で充分には深めきれませんでした。しかし、幾つかの大変重要なご指摘があり、私自身の新たな問いとしていきたいと思います。
まず、小山鉄郎氏(共同通信)からは広く文藝評論を手がけてこられた立場からの見方が提出されました。「異国体験を内面化させた川野が書こうとしているのは、映画館のような密閉された日本の言語空間、いわば劇場社会に外からの光りを入れるということ」「吉本ばななや村上春樹、村上龍などの同時代の小説家がぶつかっている言語の接続不可能性の問題に川野もぶつかっており、そこに浮かび上がっているのが今日の韻文の問題」。小山さんのご意見は、文藝評論家としての問題意識に加えて私の文体を読みの核に据えたもので、鋭く新鮮なものでした。
確かに私には劇場空間に光りを入れようとするような衝動があり、時には私自身が他者の姿をして歌の前に立ちはだかることで自分の中なかの韻文の問題を照らそうとする意志があります。これはそもそも大変難しい方向です。この姿勢が一方では「歌の読みにニヒリズムがある」というご指摘(発言者を記憶していないのですが)に繋がってゆくのだと思います。しかし、今日の短歌にとってこのような他者の視線は、歌の本質に歩みを進める上で必要不可欠なのではないかと思われるのです。この点については米川千嘉子さんが共感してくれ、下の世代はこうした他者の問題をどう考えているのか問いかけてみたいと発展的に問題提起してくれました。
私は今、あらゆる角度から、さまざまな形で他者の視線が用意されることこそが、今日の短歌の姿を浮かび上がらせる事に繋がると信じています。このことは、内藤明さんがくださった「韻文とは何かもっと問いつめるべき」というご指摘にも触れるものだとも思います。内藤さんは私が「韻文」と「短歌」とをあまり区別せず使っていた事を指しつつ語ってくださっていると思います。そのうえでのゴリ押しになりますが、今日の韻文としての短歌の問題は、これが韻文です、と直接に指し示すことによって現れるものではなく、他者の視線を借りてさまざまな角度から照らし出されて初めて見えてくるものだろうと思うのです。しかしそれにしてもこの論は入り口であり今後も時間を掛けてねばり強くこの作業を進めて行かねばならないだろうと思います。後日内藤さんとはこの件についてお話しする機会があり、メールも戴きました。その中で、「第一部(世界文学の問題)についての未知への指向は、それを読みながら、『青鯨の日』の試みとあわせてみたいと思いました。屈折や希求のありように評論らしい評論を感じたのだと思います」と語ってくださっています。
この他者の問題が小山さんによって指摘されたことは私にとって大変嬉しいことでしたが、同時にあの場で小山さんの提起以上に議論されることがなかったのは残念なことでもありました。この問いがどのように受け止められるのかがこの本の目的のひとつでもあったので。そして今後の私に課されるのは、ではどのような光を入れようとするのか、そして照らし出された短歌の問題、韻文の問題をどのように抱えるのか、という問いだろうとも思います。これは大変に難しい事なのですが。
また篠弘さんからは「世界文学、女性短歌の問題、近代」という三つをそれぞれ別々に一冊にすべきだった、というご指摘。そして「この三つの中では女性短歌の問題が川野の進むべき道」「嫌われる評論家になることを怖れてはいけない」という熱いエールをいただきました。さらに、近代については「みんな等距離ではいけない」という重要なご指摘をいただきました。牧水から何歩隔たり、茂吉に何歩近づくのかという距離感が重要だというこのご指摘は、これから私が抱えていきたい大変興味深く生産的な問です。篠さんの御発言は、一方では大変厳しく、また他方では大変熱いものでした。私はまたひとつ違うステージに押し出されたのだな、と感じつつ拝聴しました。
篠さんの御発言についてもいろいろ話しているところです。近代へのアプローチが等距離ではいけない、というのは、なるほど近代という時代に立体的に近づくためにも重要な姿勢なのだろうと思いました。そしてその中で自分の短歌観を紡いでゆくためにも。篠さんのご指摘の後あらためて、ではなぜ自分は近代に対して、あるいは世界、女、近代という三つのテーマに対して等距離なのだろう、と考えています。これは私の問題にとどまらず世代の問題かも知れないということも米川千嘉子さんが発言していました。
まだ明確な答えが出ているわけではないのですが、この問題のヒントになるような発言が島田修三さんからありました。「すべてを等距離にしてやれることがあり見えるものがあるんじゃないか」というものでした。後日島田さんからはあの発言の補足としてお便りを頂戴しています。許可を戴いて引用させていただきます。「要するに、あの女性短歌の問題をぐんぐん掘り下げて行けば、世界文学の問題とも近代短歌の問題とも切り結ぶということを言いたかったのでした」。
この問題は大変重要で、私自身の中にどうしても世界、女、近代というテーマをセットで出したいという希望があったこととも関わっています。私にとっては、いまようやく近代という時代が現代と接点を持ったかも知れない、と言う気がしています。それは、たぶん放置すれば密室化してしまう短歌という韻文世界において、切実に他者が必要とされていることと密接に関係しています。近代は、現代の時間軸に置ける他者として見直される必要があるだろうと思うのです。また平面軸においては世界という空間を他者として仮想すること、その中で常になぜ短歌なのかが自問されることが短歌をより面白くしていくと感じています。そして女は、世界においても近代においても異質な文脈に置かれてきた他者であり、その視点が今だからこそ新鮮であり必要だと思うのです。これらの問題についてはそれぞれをねばり強く追求し、三つがもっと明瞭に一つになる地点を拓いてゆくことが私のすべき仕事だと考えています。篠さん、島田さんともに大変重要な指摘で、今後に繋がる課題を戴けた幸福を思っています。
特に近代については書き方について他にも多くのご意見がありました。私自身の勉強不足を戒めつつ、しかし、歌人の引き寄せる近代は近代研究という一ジャンルに囲われるべきではないと思います。それぞれの近代歌人は掘り下げられる必要はあるけれど、いわゆる「専門家」によって囲い込まれるべきではないと思うのです。その意味では研究者の論文とは目指すところが全く違うだろうと考えています。例えば岡井隆さんが斎藤茂吉について書いたとき、あれは近代研究の立場ではなく岡井隆という人間がありありと茂吉の中に浮かぶものでした。岡井さんの近代への忸怩たる物思いが尾を引いて大変面白かった。岡井さんはほとんど資料さえ手元にない状態であの本を書いたのでした。そのような書き物は研究者のそれとは全く別の価値を持つだろうと考えます。近年、近代歌人についての見直し研究が行われていることの少なからぬ価値を思いつつ、歌人が書くということの意味と、それぞれの近代歌人がいま研究されることの内的な必然性をもう一度問いたいと思うのです。
この他にも貴重なご意見が数多くありました。すべてを記載できないことをお詫びしつつ、あらためてこの会を実り多いものにしてくださったことに感謝申し上げます。また、私の本を読んでくださった方々にもこの場を借りて感謝し、どうぞこれからでもこの批評会にメールや掲示板でご参加ください、とお誘い申し上げます。