著者: 川野里子 / 発行: 雁書館
24才から30才までの作品。表現。
二年間を過ごした北国での生活が背景となっています。
1990年10月刊。
抄録を掲載。
ふるさとは海峡のかなたさやさやと吾が想はねば消えてゆくべし
ヒヤシンス宙吊りの根がふるひつつ伸びゆく痛さを見つめてをりぬ
昏れゆける火の山が吐く火の煙ほうほうとして巨人は眠る
関門海峡に夕べ桜はふぶくとふ父母さへはるかにかすませながら
あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか
目閉づれば風のかなたに風生(あれ)てわれは根のなき光のセロリイ
舞ふ鷹に掴まれてゆく骨すずし鳥葬のことチベット記に読む
すやすやと眠る体に骨も眠りこの子も天の巣落鳥(すおちご)ならむ
光の中誰にも見えぬ殻脱ぎて子は歩みたし母は抱きたし
〈東京は人を殺す〉かあはあはと生きて寄りゆく春の欄干
明暗の〈明〉ぞしづかな問ならむ光よろこぶ春神田川
背のびしてセロリ見てゐる幼子の発芽のやうなひたむきに逢ふ
ヨーゼフは千鳥足にて帰り来ぬ男の子生まれて七日樹の闇
聖母子の風聞ののちも木を打ちてこんこんと大工ならむかヨーゼフ
アルカディアかんと明るき静謐に論の積み木をしてゐむ表情
君の想ひにわが思慕うまく重ならずなだれむばかりの灯を積む街は
北国の君を待つ椅子かんかんと積みて明るきわれを待つ雪
自(し)が生を勢ひ泳ぐ汝がかたへわがためわれは生きたきものを
冬の川しづかにのぼるふた魚を見失ふまで見て歩み出す
風中の大樹笑ひておうおうと見送る種子ぞ北へ赴く
憎ふかく想へば北の獣なる蔵王ぞほそき眼をひらく
住みにゆくわれは蔵王のうらがはに着きてきしきし薄雪を踏む
風の渦まきのぼる空をながれきてゆつくりと鳶はまばたきてをり
月山の端座憎めば女(め)のやうに執念(しふね)く山は黙りこむなり
出羽三山響かふ間(あはひ)つつぬけの空よりわれは降り来しごときよ
鯉のぼりほうとふくらみくたと降るこの緩慢なる力見よとぞ
春の風ゆるみほとりと地蔵町(ぢざうまち)小児科医院に外灯ともる
遊ぶ子の群かけぬけてわれに来るこの偶然のやうな一人を抱けり
蔦しげる学棟君は急くやうに追はねばほろぶ学説を追ふ
万の日を万の鳥来て越えざりし鳥海山にぞ視られて仰ぐ
ふと君の表情のなき視野のかなたバベルの塔が風に揺れてゐる
青葉梟(あをばづく)ほほと声してふたり行く悲のうらがはのやはらかき闇
黄金(きん)のきのこ耳たてて売られをる町にわれの足音ひびかせてゆく
北国の父母は嘆かざる父母ぽうと鳴きぽうとふとりて声のみの木菟(づく)
夜の町に三人の影を重ねゆく〈われ〉より〈われら〉の寂しきことある
君と子とわれと三人(みたり)のトライアングル響く最中に雪降りてゐる
北国の人の心の柔順を怒れども怒れどもふかき真綿のごとし
あかるさの野より幼(をさな)は帰り来ぬ手紙のやうな雪を抱へて
月山のふかきぬばたま夜をこめて人貌の胡桃音たてて飛ぶ
鬼くるみ月山の夜を太り来てことりと置けばよき顔をせり
おもむろにまぼろしをはらふ融雪の蔵王よさみしき五月の王よ
ものおもふひとひらの湖(うみ)をたたへたる蔵王は千年なにもせぬなり
ことばもてうつろふものとこゑなくて変はりゆくものいづれが哀し
気まぐれな春の雪片われと子のはるかな間(あはひ)に生まれては消ゆ
坩堝(るつぼ)ふかく霧を煮詰つむる魔女として眠りゆく子をなだめぬながく
意地つよく黙れば幼きカインにてかうかうと羽毛のごときもの脱ぎゐつ
湾岸地帯(ベイエリア)乳白の霧にねむる朝ねがへればふかき胸に抱かれぬ
混沌のさきぶれならむピアニシモ目覚めゆくひとがわが名呼ぶとき
ジュラ紀には海なりし広場ほつほつと貝より生れて子らあそびをり
紙コップにコーヒー満つるまでを待つじぐざぐの風になぶられながら
白蓮や阿佐緒の直情蔑(なみ)せしに時経て咲(ひら)く痣のごときは
婚姻のやはらかき時間(とき)のかたはらをはたたきて迷ふことなき飛魚(とび)よ
合歓合歓(ねむかうか)子を語るわれらたゆたひがふかき力に変はりゆくまで
失語へとはこばれゆくな夏の花咲きみちてわれをゆする桟橋
生活はあるとき心あはれむとヨゼフが聞きし太き言葉よ
父母の庭季節を時の単位としくろがねもちの樹影うごきぬ
洗濯機かんまんな渦に消え灯りソドムほのかな火のめぐりをり
椎の実は智恵のごと降りあれは何?あれは何?とふ子の放つ声
斑鳩(いかる)きてぽぽうと鳴けば幾時代過ぎたるならむ頬づゑをとく