いい歌わからない歌

『短歌研究』

 

いいと思う歌、分からないけれど魅力的な歌についてその味わいを歌に添って解説しました。


●いいと思う歌

空車ひろひて帰るとたれも居ず回想のごとふるきわが家 

森岡貞香「短歌」04.9月号

 

 おそらく今日リアリズムの方向を最も実のあるものにしているのが森岡貞香であろう。リアリズムを突き抜けたリアリズムとでもいうのだろうか、見ることと言葉への執念が感じられる。その存在感は、リアリティーと手応えを失ってゆく現代の中で年々重くなってゆく気がする。この歌も「くうしゃ」ではなく「からぐるま」に乗ったことをきっかけに世界が変容している。まるで浦島太郎のように茫洋と途方もない時間の彼方から帰ってきたような不思議な感覚がある。しかし空想やアイデアだけで作ったのではなく、自宅というものが時にそのように見えるというリアルな感覚を引き連れている。そこが面白い。言葉の技だけを見せるのではなく、現実ごと言葉によってねじ伏せるような底籠もる響きがある。

 

●わからない歌

晴るるにかあらむと去にぎはに言ひつるが人去にてより空氣がうごく 

森岡貞香『敷妙』

 

 わからない歌なのではない。むしろ非常にいい歌だと思う。わからないのは、どうしてそのような執念をもって些事を凝視出来るのか、ということである。何でもない挨拶の客の来訪、おそらく日常繰り返されているのであろう。そこに視線と感覚とをぐりぐりとねじ込んでゆく。そして導く「空氣がうごく」。なるほどなあ、と思うが、激しく移ろう現代にこのような視線を保つのは至難だ。つい軽く小走りになる視線と物言いの中で、森岡が手に入れたこのような凝視は謎である。激しい時代を生きてきた作者が今も確かな何かを探るようでもある。

 

●いいと思う歌

鬼の子孫をかなしむなかれ大空に舞ふもみぢ葉をかなしむなかれ      

前登志夫「短歌現代」04/1月号

 

 前の詠う吉野の山は、前の言葉によって創り出されてきた。吉野がいかに古く分厚い伝統に守られていようとも、現代にとって生きた地であるためには、その伝統を再生し創造する者が必要である。前は吉野の山人を生きるという風狂を自らに課し、言葉と吉野とを創り上げてきた。この歌でもリアリティーを持つのは繰り返される「かなしむなかれ」であろう。鬼の子孫は今や電車や飛行機に乗りパソコンを携えて怒ることよりやり過ごすことに汲々としている。つまり鬼の子孫など言葉の世界にしか居ないのだ。しかしそれをリアリティーある哀しいものにするのは「かなしむなかれ」の一語である。前の一生の風狂を賭けた言葉が、あり得ぬはずの鬼の子孫や滅びたはずの鬼の心を呼びもどす。紅葉も全山かけてこれに応える。吉野の山が物語や過去の遺跡としてではなく、現代を背負った必死の風狂の場としてにわかに活気を帯びる。

 

●わからない歌

癡漢多き御堂筋線、思ひきやわれは女人に觸られたりき      

前登志夫『鳥總立』

 

 前らしい茶目っ気のある歌である。前を本当に触る女人が居るわけない、と思うからわからないのではなく、この天真爛漫な自意識の出所がわからないのである。たぶん女には一生わかりそうもない開放的な肉体感覚である。男は自分の体を自ら笑うことができるが、女は自分の肉体を笑えない。女を語る文脈にそれがないからだ。年取った女の肉体は沈黙する。男はこんな風に見せものにする。わからないから不思議な感じもする。 

 

●いいと思う歌

含羞は湖の水際のいづこにも蜷の小貝が口閉ぢてゐる      

安永蕗子『褐色界』

 

 安永作品の場合、いい歌、わからない歌という分け方をするのは極めて困難だ。どの歌も均質かつ緻密であり、作品の優劣などはつけにくい。しかし一読者としてやはり親しい歌と遠く感じる歌とはある。この歌は、私にとってことに親しく感じられる作品の一つである。まるで湖全体が柔らかな心を持つようである。その汀に口閉じている蜷を拾い上げるたびにああこの湖は恥ずかしがっている、と思う。その感性の肉感が楽しい。蜷は拾い上げるまでは岩や石ころに張り付いて寡黙なだけの小さな生き物だが、水から引き上げられるとどの貝も生真面目に口を閉ざし何事かを言うまいとする。ことに地味な貝だけに田舎娘のようでもあり、親しいこの湖と何かを深く分かち合っているのであろう。手に触った感触、生き物の手応え、そのようなものがリアルに湖の存在感を伝える歌だ。

 

●わからない歌

みぞそばの花の薄紅湖岸に群れてこの世のこと軽くする      

安永蕗子『褐色界』

 

 あまり植物に詳しくないという私の側の事情もあって、この歌は少し遠く感じられる。零れるような小花なのであろうか、水際に咲いたみぞそばがこの世のあれこれの重みを軽くするようだと言う。しかし近年の「この世のこと」はとうてい何事によっても軽くなりそうもなく、深刻で重くなる一方である。四十代半ばという否応なく現実まみれの時間を生きている私にとって、この世のことを軽くするような風景に出会うことはまだずいぶん先の事に思える。みぞそばは可憐な美しい花なのであろう。いつか逢ってみたい。