角川『短歌』平成17年3月号
写実というと少し面倒な気がするが、対象の特徴をしっかりと捉え、そのものの本質を捉まえることだと考えると、どんな表現にも通じる基本中の基本ということになる。事物をインスタントカメラで撮るように何でもそこにあるまま切り取って詠めば歌になるというものではない。今日の写実は、さまざまな技巧の工夫をし、幅広く多様な表現を開拓して事物の個性や本質に迫ろうとしている。ここでは短歌にさまざまに詠まれている花の歌について見てゆくことにしよう。
ラブホテルのうらの塀より日一日石榴の花はみちにこぼれて
小池光『滴滴集』
この歌は一見素朴で、旧来の写実に近く見える。しかしここでの「石榴の花」はやはりこの花以外ではありえない。たまたま実際にラブ・ホテルに石榴の花が咲いていたというよりここは石榴の花を据える以外になかったのである。ラブホテルの裏という場所には人生の裏側のようなうら寂しい風情がある。人の臓器や欲望や神秘の象徴としてよく使われてきた石榴の実を想像させながら、石榴の花は散り零れる。石榴の花の質感とたたずまいとは、この場所にとって綿密に選ばれたものなのだ。この歌の情緒を決める石榴の花はその質感をよく見極め使われている。この質感よく見るということが写実だと言えよう。たまたまそこに咲いていたから、というだけでは決してない。一見さりげなく見えながら、実は正確な観察と緻密な技法が使われているのである。
散つて散つて風の山茶花かの庭にみればおばあさんひとり残れり
馬場あき子『世紀』
この歌の一体どこが写実か、と言われれば全体が、と答えるのが相応しいだろう。まず上の句では山茶花の散る様子が描かれる。その時山茶花という花の特徴をこの歌は散る様子に捉えている。椿のように重たくなく、花びらが一枚一枚散る山茶花を「風の山茶花」という表現する。そして下の句では実際の風景というより想像の風景のおばあさんが想われる。しかしこの想像は山茶花の本質を捉えるのに深く関わっているのだ。花びらの散る様子が映画のコマを早回しするような長い時間の経過を表現する役割を果たし、「おばあさん」の孤独の質さえ表現している。華麗に過ぎず、地味ではなく、あっという間に大きな花びらを散り零してしまう山茶花。「ひとり残」る寂しさにこの花の質感はよく合い、それ以外で表現できない情緒を引き出している。この、他の花以外ではありえないという必然性こそが写実の本質であろう。結果として山茶花とおばあさんとはお互いの質感、情感を引き出し合っているのである。
もう少し花の質感、情感を引き出すということに拘って見てみると、現代短歌は実に楽しくバラエティーに富んださまざまな花の表情を捉えている。
木蓮の白きはなびらひらききり護符現はるるごときゆふぐれ
栗木京子『夏のうしろ』
臘梅の南無南無南無と花増えて今日あたたかききさらぎの雨
小島ゆかり『エトピリカ』
栗木の歌では、木蓮の大きな白い花びらが「護符」に例えられている。暮れ方のぼんやりとした視界に咲いた木蓮は、何かの魔力を秘めた護符のように暮れ残る。表現の中では省かれているものの、木蓮の花の大きな花弁の質感、白い色の印象、花の存在感が観察されている。それを生かすために添えられたのが下の句だ。誰にでも木蓮のあの大きな花の様子が思い浮かべられるのはそのものの本質が正確に把握されているためだ。
小島の歌では、「南無南無南無」が臘梅が枝にぽつぽつと花を咲かせてゆく様子を表している。臘梅はその香りこそ華やかだが、花は比較的地味だ。その地味な蝋細工のような花が順番に開いてゆく様子を呟くようなお経の文句が表現している。全体の歌柄の温かさが臘梅の控えめな存在感を包み、あらためて臘梅とはこんな花だったかと思わせてくれる。この歌にも臘梅の質感は正確に把握されているが、その質感を言葉の楽しみに発展させている。
さらに花の質感を生かした応用編と言えるのが次のような歌だろう。
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
永井陽子『モーツアルトの電話帳』
あかときのねむりのなかに置いて来し帽子みたいな大きな椿
河野美砂子『無言歌』
回文のように上の句を下の句で繰り返しているだけのこの歌から私達はなぜかあの大きな向日葵を思い浮かべる。もちろん読者の誰もが向日葵をよく知っているからだが、その記号のような花に質感と存在感を一層与えているのがこの繰り返しなのだ。上の句ではポスターに描かれたような異国の向日葵のイメージが、下の句でがより鮮明に迫り出してくる。結句の「ひまはり」は初句のそれよりはるかに確かな存在感がある。この場合も向日葵以外では成功しなかっただろう必然性がある。これは言葉遊びに花の質感が生かされている例だろう。
河野の歌では、椿の存在感がデフォルメされている。デフォルメは対象の質感が正確に把握されていなければ成り立たない。おそらくは散って転がった椿の花の様子が強く印象にあったのだろう。その花が夢の中で再現されるとき、さらに鮮やかに存在感を増す。帽子のように大きく鮮やかな椿が夢の中に転がっており、それはかつて見た本物の椿よりいっそう椿らしい。この歌は、夢という空想の空間に対象を置き直し、その本質を新たに引き出している。このような大胆な表現にも写実は基本となって表現を支えているのだ。
そのものの正確な写生が、複雑な情感を代弁している歌もある。
夜の萩白くおもたきみづからの光守れり誰か死ぬらむ
河野愛子『鳥繭』
桃の木は葉をけむらせて雨のなか共に見し日は花溢れゐき
大西民子『花溢れゐき』
河野の歌では、重たいほどに咲いた満開の萩の質感が捉えられている。月の光に照らされているのであろう萩の花の美しさは古来詠み継がれてきたが、ここではさらに踏み込んで「みづからの光守れり」と自らの物思いを重ねることによってさらに重い存在感を引き出している。結句は直観的にそのような萩のたたずまいが人の死を連想させたものだろう。この結句によってさらに夜の萩の冷えた美しさはさらに増す。奥行きのある写実だ。
また大西の歌では、今現在ない花が思われている。目の前にあるのは雨に濡れる桃の木。その木の様子が子細に観察され、「葉をけむらせて」と捉えられることにより、下の句の回想を引き出している。花咲いていた頃の桃には花咲いていた頃の自らが重なるのである。ここでは花咲く桃の記憶が目の前の桃をいっそうリアルにし、これぞ桃の木というそのものの本質を捉まえることに成功している。
いつしかに藤棚の藤はらはれて砂場にあはあはと格子の影ある
『春疾風』花山多佳子
この歌も今はない藤が詠まれている。砂場を覆っていた鬱陶しいほどの藤の繁茂が払われ、藤棚の格子が影を落としている。今目の前にあるのは骨組みとなった藤棚のみ。しかしその寂しい影はむしろ鮮やかにそこに藤があったことを思わせる。花咲く藤の煙るような色合い、そののち実を垂れ、葉を勢いよく茂らせてゆく。そのような藤の命の移ろいを命のない格子の影は一層くっきりと思わせる。形にならない葉の茂りの間からちらちらと葉洩れ陽を落としていたか、ぼうぼうと繁り揺れる影の固まりを投げかけていたに違いない。ここでは藤そのものは描かれず、それがなくなった後の風景が丁寧に描写される。それによって逆に藤がありありと見えるという典型的な例だ。「いつしかに」が記憶と現在の境界をぼかし、不思議な魅力を生んでいる。
また、今まさに咲き盛る花が心の機微を雄弁に語るという歌もある。この場合も直観的に把握された花の質感、その花が何を語っているように見えるかという観察が重要な役割を果たしている。
紅梅は虚空にそそぎて、座りいるわが身を花のはげしさが搏つ
中川佐和子『朱砂色の歳月』
凌霄花の花枝ずいと引く君の、わが知りていしはずのかなしみ
梅内美華子『火太郎』
中川の歌では紅梅の散る様子がこの歌の核となっている。白梅の散る様子はよく詠まれるが、紅梅はそれとは大きくその情緒を違える。紅梅の赤さは独特の強さがああるが、それを中川は「花のはげしさ」と描写した。見上げる紅梅は大空に注ぎ込むように花を散らしている。その色合いと様子とは自らの心模様のように強く激しいのだ。ここでは紅梅と作者は一体となり、紅梅そのものの質感が心を表現している。
また梅内の歌では、凌霄花のあの切ないような激しい花の様子が「君」の「かなしみ」そのものとして描かれる。何も言わない相手が何を思っているのかは、凌霄花が代弁しているのだ。身を捩るようにして延びた葛から差し出されるように伸びる花枝。その様子が正確にデッサンされているからこそ「君」の心模様を代弁できる。他の花では決して言えないことをこの凌霄花は語っているのだ。「ずいと引く」という動作が凌霄花の命を引き出し、相手の心の秘めた能動性を表現している。この歌では凌霄花とともに相手の心模様も子細に観察されていると言えよう。
現代における写実とは、最も基本的には対象を正確に把握するデッサンのことだ。デッサンがしっかりと出来てはじめてその上に表現を重ね積み上げることができる。素描のようにさりげなくデッサンされた花の歌を見てみよう。
秋桜と書かばはみだす明るさのコスモスをバケツ一杯挿せり
小川真理子『母音梯形』
両岸をつなぎとめいる橋渡りそのどちらにも白木蓮が散る
永田紅『日輪』
小川の歌では淡い色合いが優しいコスモスの質感が上の句で捉えられている。「秋桜」と書くだけでその明るい色合いがはみ出すようだ、という把握には、秋桜への直観的な把握が生きている。同時にわれわれの中にある秋桜のイメージも一層確かに豊かになってゆく。バケツ一杯に活けられた秋桜は、作者の気分とも重なりながら秋桜ってこんな花ですよね、と語りかけるようだ。
永田の歌ではいっそう単純化された風景のなかに白木蓮の質感が生きている。橋が両岸を辛うじてつなぎ止めるのだという把握は面白いものだが、その把握を説得力あるものにしているのが白木蓮の質感なのだ。橋の両側に咲くのはこの花以外ではあり得なかった。例えば紫木蓮では橋は両岸をつなぎ止めえなかっただろう。大きな白い花が散りかかることによって両岸は橋の力に引きとめられる。白木蓮の素描として洗練された感覚がある。
このように、これまで見てきた花には、この歌にはこの花でしかあり得ない、という必然性が強く感じられる。咲き加減、色合い、姿、場所、そして作者の心情、それらはこれでしかあり得ないという直観の細い糸で強く結ばれている。その細く強靱な糸が写実なのではなかろうか。たまたまそこにあったから、本当にそこにあったから、というのは記録であって文学ではない。写実は根本のところで事実より直感と心動きとを重んずる姿勢ではなかろうか。
数へても数へても花の数合はぬ椿の樹下に今日も来てみる
河野裕子『家』
ぬばたまの闇なる庭のつはぶきを遠島の花のごとくに恋ふも
伊藤一彦『新月の蜜』
河野の椿を他のどんな花が代替できるだろうか。無理だ。数えたくなるほどの花の量感、そして咲いては落ちてゆく有様、椿の大樹はそれ自体不思議な世界を持ち作者を惑わせるに足る。また伊藤の石蕗もこの花以外ではあり得ない。ここではなく「遠島」に咲いているようだ、という把握は石蕗の花の本質から発想されている。ここにありながら遠くにあると感じさせる恋の情緒もそこには重なっている。目立たぬ花であることも味わい深い。