短詩型文学に宿る自然

毎日新聞04年4月25日(地方によって異なります)

 

前登志夫は先般刊行したエッセイ集『病猪の散歩』のなかで「現代の子らは彼方までを知っている。深海の底までも居ながらにして見ている。そして世界への畏れをかえって忘却してしまった」と記す。世界への畏れとは、世界の実感であり、ひいては自分の存在感であろう。前は山棲みの生活を主題に、山川草木や動物との交流の中から命の奥行きを見つめてきた。

 

 性愛を蔑まざりし神々のつどへる秋の夕雲朱し

『鳥總立』

 山上の巖に夜半の雪つむをわが晩年の情熱とせむ

『流轉』

 

 昨年末刊行の歌集『鳥總立』、『流轉』でも、命の希薄な現代に向けて健やかな自然としての古代の性や、自然そのものである自らの老いの神秘を描いた。

 また今年度の河野愛子賞に決まった日高堯子の『樹雨』も、あらゆる場面に自然との関わりを問う。また草木虫魚の息づかいにによって言葉に命を吹き込むかのようである。

 

 幸田文の渾身のことばカルデラにからんと渇き孤独に立てり

 

 昏睡のははの脳にうねりつつなだれつつ海が茨城の海が

 

 荒々しい自然の前に言葉とは一体何であるかを問う一首目、看取りの場面で人間に宿る自然を見つめる二首目。いずれにも自然との問答がある。

 近代はともあれ自然との新たな関係を模索したが、現代はその努力を放棄した。自然が文学の主題になりにくいのもそのためだ。しかし不思議なことにこの詩型には自然が生き続けており、言葉はその恩恵なしに生命感や膨らみを得ることが難しい。短歌が草木虫魚に親しいのも俳句が季語を手放せないのも言葉と自然の関わりの深さを示すだろう。前が生涯主題としてきた自然も、日高が言葉に棲ませる自然も、ともに今日の命の希薄さと向き合っている。

 自然は短詩型文学を選んで生き残り、現代を問おうとしている。意外にねばり強く。