回顧と展望

— 戦争と不安をみつめる —

毎日新聞12月11日(地方によって異なります)

 

茂吉や迢空が亡くなった五十年前、生々しい犠牲の記憶とともに戦争ははっきりと悪だった。半世紀の後、戦争は漠然とした不安として私たちを覆う。手触りのないこうした不安の影は、直接に間接に作品の隅々に現れ、今年の作品にいくつかの傾向を形作っている。

 若い層に目立ったのは、性や身体を通じて世界を感知する傾向である。この欄でも紹介した松本典子、小川真理子、多田零の他に、黒瀬珂瀾の『黒耀宮』高島裕の『雨を聴く』が印象に残った。黒瀬や高島の性愛は、暗い閉塞感を漂わせながら、暗澹とした世界の成り行きそのもののように描かれる。それはちょうど横山未来子の『水をひらく手』や入谷いずみの『海の人形』に見える健康なリリシズムと対照的な、出口のない危うい手探りにも見える。

 

 The world is mineとひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に

黒瀬珂瀾

 パレスチナの少女が自爆せし時刻炎のごとく君を思ひゐき

高島裕

 忘るとは解かるることと知りたるにみづから紐を結びなほせり

横山未来子

 不思議なり醜女の話美女よりもくはしく今に残せる『古事記』

入谷いずみ

 

 しかし見えない不安を最も鋭敏に反映するのもまた身体なのであり、日高堯子の『樹雨』では身体感覚を駆使して人間や自然との関係を手探りする。

 このような傾向に対し、前登志夫の二冊の歌集『流轉』、『鳥總立』、佐佐木幸綱『はじめての雪』、篠弘『軟着陸』は自らが背負う生活や時間への信頼を深め、不安の時代を押し返そうとする。そうした信頼は言葉への信頼と深く結びついている。

 皮肉なことに、多様化し共通項の見つけにくくなった短歌に唯一共通の主題を提供したのも戦争であった。意思表示の極めて少ない現代日本の社会で、戦争をテーマにした新聞歌壇などへの投稿歌の多さはやはり特筆すべきことだろう。歌集においてもこの欄でも取り上げた栗木京子の『夏のうしろ』のほかに、外塚喬『火酒』、香川ヒサ『MODE』、加藤治郎『ニューエクリプス』、大塚寅彦『ガウディの月』、など多くが戦争や不安を肌で感じつつ世界や人間の行方を問いかけていた。

 伊藤一彦の『歌の自然、人の自然』では「『心と体、自と他、内と外』と明確に割り切らない『たましい』をパースペクティブに長く歌い続けてきたのが短歌」だと語る。スタイルやテクニックの時代の後に来た不安の時代に求められるものは、よりトータルな人間の全体性への希求であるかもしれない。