炙り出される運命と不安

毎日新聞8月17日(地方によって異なります)

 

今年は斎藤茂吉没後五十年にあたりさまざまな企画や出版があった。その中でも小池光の『茂吉を読む』は最も相応しい読み手による茂吉論と言えよう。

 四十代で早々に老いを引き受けた茂吉から小池は「運命に対する諦観」という核を導き出す。それゆえ茂吉は運命に逆らう者には「右からであれ左からであれ社会改革運動のようなものに対して一切、同情や共感を持たなかった」のであり、「近代の本質を理解しない蒙昧さと、近代人が気が付かない盲点をついた発想の鋭さとが同居している」とする。

 近代文学史の巨人でありつつ近代人であり得なかった茂吉。その奇妙な溝に小池の子細な観察が及ぶ。ことに不可解な歌や毒のある部分を読み解くさまは、さながら噛むほどに旨いスルメを味わうようだ。その旨みには日本近代の深層から滲み出る矛盾や本音が含まれている。近代が隠した非近代性をはからずも体現した茂吉、そこを暴く小池の絡みが読みどころだ。

 一方、近年読み直しが盛んになっているのが葛原妙子だ。寺尾登志子の葛原妙子論『われは燃えむよ』は「二十世紀の戦前戦後という価値の転換期を生き抜いた、女性としての生の懊悩」を作品の背後に丁寧に追う。

 葛原は茂吉と反対に女であること、この世に存在すること、あらゆる「運命」に抗い続けた作家だ。しかしその底に茂吉に通じるものを抱えていた。寺尾は「茂吉程、心の奥深くつねに生命の不安を蔵していた歌人は少いように思うのです」という葛原の言葉を引き、「茂吉の直観による表現を、彼女は方法をもって行おうとした」とする。寺尾が葛原から引き出す核は「生の根源的な不安」だ。 

 茂吉と葛原。共に不安を抱えた作家が今日あらためて深く読まれるのは、形のない不安を抱える私たち自身が「運命」に抗うのか「諦観」するのかを迫られているからに違いない。