毎日新聞7月6日(地方によって異なります)
短歌をより広い視野から見つめた著書が刊行されている。
近代文学研究者である栗坪良樹の『寺山修二論』は、没後二十年の寺山像を、その多彩な活動の原点である短歌、俳句に遡って明らかにする。
栗坪は寺山の「家出論」に注目しつつ、つまるところ一生家出を続けること、そのことに寺山の活動の核を見る。それは定型詩への姿勢にも及び、「短歌という表現形式に仮託しながら、その反短歌性を目論んでいる」とする。寺山は短歌において詩型の限界を試すように、「家出」をし続けたというのが栗坪の論点だ。二十年を経て炙り出される寺山像は切実な「∧ことば∨の飢餓感」を抱えている。
またジャーナリストである酒井佐忠は、詩、俳句、短歌を見渡すエッセイ集『風のことのは』で、多様化とグローバリズムが同時進行する社会を背景に、詩歌の重要さを再認する必要を説く。インターネット短歌に象徴される近年の短歌が「新しく突拍子もないインパクトを生む可能性もある」としつつ、しかし「詩歌の言葉が『現在』や『情報』に呪縛されるほど軽々しいものであっては、なんだか寂しい」とも語る。「情報資本主義のディスプレイには映りにくい」詩の大切さを説く野村喜和夫の言葉を引用していることも印象的だ。
比喩的に言えば、今や私たちは「家出」をしようにももともとの「家」を失った状態だろう。栗坪の寺山像は「言葉餓鬼」として短歌という「家」から逃亡を続けた。その結果炙り出された短歌は鮮烈な存在感をもっている。酒井はジャーナリストとして強く現在を意識するゆえに、今に呑まれない言葉のありかとしての詩歌を熱望する。
「家」を見失いそうなとき、あるいは短歌の外側にこの詩型の意味を問うのがいいのではないか。そこには純粋な言葉への愛があり、それこそが詩歌に力を与えていることに気付く。