伝統回帰の背後にあるもの

「毎日新聞」2003年5月11日朝刊

 

渡英子の『みづを搬ぶ』、島田幸典の『no news』が現代歌人協会賞に決まった。

 

 夏の日にほてる夕べの雲の下いそげ飛火野阿修羅に逢はむ

渡英子

 言葉あればわれ在ると思ふみづを搬ぶ雲のしづかな時雨となれば

 

 古代ロマンへ向かう伸びやかな一首め、歌への志を語る二首め。ともに巧みな技巧を見せるがそれのみに終わらない存在感がある。「短歌形式を借りて製作することは、万葉以来積み上げられて来た日本語の言語表現の蓄積を引き受けることに他ならない」と記す渡は、伝統の中に短歌の存在意義を見る。

 

 釉薬を身体に巻きて佇つごとし近づくわれをかすか怖れて

島田幸典

 絵師が絵を忘れぬように人恋し今朝紅梅のはや七分咲き

 

 島田は細やかで鋭敏な観察眼で恋を、自らを細密画のように描写する。恋にさえ昂揚することのない不思議な成熟はどこかもの哀しく、現代の青年像を浮かび上がらせる。「『目新しいことひとつない』青年期であった」と記す島田は、何も起こらぬことを表現の基点とする。  十五年前、俵万智の『サラダ記念日』と加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』が同賞を受賞した。その時新しい世代への驚きとともに、短歌はどこへゆくのかという未知への期待と不安で迎えられた。それに比較すると不思議な落ち着き方であり、それが気になるところだ。ともに高い完成度の歌集であり、伝統詩形をいかに揺さぶるかを課題としてきた現代に対し、詩形への強い信頼を掲げている。

 この動きは、さまざまな試行をしてきた短歌が今一度伝統詩形としてのアイデンティティーを取り戻そうとするものであろう。しかし他方では今日的な生や言葉への不安を背景に、せめてこの詩形を信じたい、という希望の表明にも見える。