ワイダの大団円

角川書店「短歌」掲載

 

アンジェイ・ワイダ監督「パン・タデウシュ物語」評

「灰とダイヤモンド」「地下水道」「鉄の男」「大理石の男」など、社会派の力強い意思と思索を感じさせる映像でアンジェイ・ワイダを記憶している人も多いだろう。しかし、今回の作品「パン・タデウシュ物語」は画面に満ちる柔らかく懐かしい光に吸い込まれそうになる。ポーランドの村落の風景にずっと昔の日本にもあったかもしれない草や木々の匂いが漂っている。

 19世紀の詩人、アダム・ミツキエヴィチの原作による物語は単純で、ポーランド版のロミオとジュリエットといえるだろう。ただし、ハッピーエンドである。ワイダはこの叙事詩の魅力をを可能な限り引き出し、結果として人間と人間とが顔を見知り、言葉や吐息で語り合うことのできた19世紀初頭という時代の懐に飛びこむことに成功している。

 この映画は本国ポーランドでは国民の三分の一が見たと言われるほどの人気であるらしい。しかし民族主義的な高揚感とはどうも別物の人気によるのではないかと思う。全体にとてもおっとりとしていて、デテールの面白さに魅せられてしまう。大事な失恋の場面なのに、スカートの中に虫が入って転げ回るかと思うと、ポーランド人が、ポーランドを笑う余裕も楽しい。熊狩りの場面で、ロンドン制の猟銃だから当たったんだ、と力説し得意がる場面など爆笑ものである。何だかどこかの国民性に似ている気がしなくもない。

 そして何だかじわりと涙が滲んでくるのだ。「ライオンキング」を観ても泣いてしまう私としては泣けない映画はないのだが、これは別物の深いところからこみ上げてくる感動だとわかる。まず絶対の悪者がいない、絶対のヒーローもいない。不完全な人間達が繰り広げるドタバタ喜劇、それが深い人間観察に裏打ちされている。それでも人間って面白いじゃない、という無言のメッセージにはワイダ監督の潜った今世紀末という酷薄な時間が深く刻まれており、それに堪えた愛が感じられる。

 諍いも憎しみも誤解も愛も、すべてが至近距離であり、人間の汗や涙や体臭がぶつかり合い触れあう。物語が展開するのは馬や徒歩で人が往来できるほどの小さな村である。考えてみれば今世紀は大量殺戮や大国主義に象徴されるように、マスとしての人類は存在しても個々の人間の顔の見えにくい無表情な世紀だったのではなかっただろうか。

 画面に揺れる柔らかな前世紀の村の日差しと、そこに展開する泣き笑いのドラマを見ながら、ワイダはまさにこの人間の村を映像の中に回復しているのではないかと思えてくる。