共同通信配信2006年8月
水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし
『橙黄』葛原妙子
終戦まじかの昭和十九年の冬を葛原妙子は三人の子供を抱えて群馬県浅間にある山荘で越す。厳しい寒さと食糧難に喘ぐ日々。同じ歌集のなかに当時を伝えるこんな歌もある。
室の戸をわづかにずらし温気あがる馬鈴薯(いも)よたしかに生きてあるなり
食糧の有無が生死を分ける生活。蓄えた馬鈴薯が寒冷な空気の中に上げる温気は、馬鈴薯が生きて呼吸していることの証であり、同時に自らと子供たちの命をこの食物がわずかの間繋いでくれることの証しでもある。命の危機と直に向き合うこの一冬の生活は葛原の内面を大きく変えた。
昨日まで命を賭けて信じよと言われた思想が潰え、今日からは別の思想を信じよと言われた激変の時代。多くの日本人の心は昨日と今日の間の亀裂に取り残されたのではなかったか。戦後の焼け跡に立った葛原はこの世に何一つ頼るべきものなどないと痛感する。冒頭の歌の揺らめき立つ水陽炎のイメージは、こころもとなく揺れ、消えてしまいかねない世界のようだ。しかしその揺らぎの中で、すっくと立つ一人の人間の姿も印象づける。頼るべきものなど何もない、という覚悟は消極的なものではなく、自らの力で生きていこうとする新しい人間の誕生を告げていた。
高度経済成長の始まりと共に生まれ、豊富な物に恵まれて育った私が強く記憶しているのは倉庫いっぱいに買いだめされたトイレットペーパーだ。ティッシュペーパー、カップラーメン、電気製品、次々に身辺に溢れていった物、物。世界は夥しい物で溢れ、気が付けばいつの間にか私たち自身が水陽炎のように儚く危うくなってしまっている。
この世には何一つ信じるに足るものはない、と覚悟させた戦後の瓦礫には真実をあからさまにしてしまう酷くも明るい光が注いでいた。その光に貫かれた葛原はこの歌を契機に、全く新しい表現でこの世の真実を見つめる歌を作り続けた。