桜の祝祭、桜の暴力

朝日新聞04/3/27(夕刊)

 

母が独り棲む九州の家の前に大きな桜の木がある。今年もその木が咲き始めた。母は桜が嫌いである。花びらがどこからともなく忍び込んできて、茶色く変色する前に掃かねばならないからだと言う。風の強い日には庭一面が真っ白になることもある。畳の上などにちらほらと花びらが零れているのは美しいではないかと思うがそうではないらしい。妹と私が家を出、父が亡くなり、独り暮らしになってからというもの、花びらはいっそうしんしんと家の隅々にまで舞い込むようになった。桜の咲くころ、母は舞い込む花びらを毎日掃き続ける。

 桜前線が動き始めるこの季節、母は桜と闘い、私は桜の持つ不思議な力を思うことになる。

 

 わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪きゐる見ゆ

『桜森』河野裕子

 

 私が短歌と出会った頃、河野裕子は桜と正面から闘っていた。鮮烈な驚きだった。一本や二本の桜ではない。森となるほどの桜を身体に納め、自ら桜そのものとなって佇んでいる。この人は桜を喰ってしまったのだ、と思った。桜と闘うとは、桜に喰われるか、桜を喰うかどちらかだ。桜に喰われれば一生満開の花に閉じこめられ、分厚い美学の虜として奉仕するほかない。艶然と微笑みながら気の遠くなるほど多くの人々を呑み込んできた桜。この歌はその闘いに勝った若い自負を湛える。そっと覗き見る胸の桜もまだ吹雪きつづけており、いつまた形勢を逆転するかもしれぬ力を秘めている。

 そんな桜の恐ろしさに敏感な歌人として葛原妙子がいた。彼女は魔女とも呼ばれた鬼才の人であったが、めったに桜を詠まなかった。しかし詠まれた歌は屈折深い。

 

 うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在處おもほゆ  

『薔薇窓』葛原妙子

 

 「うはしろみ」は、表面の色が褪めて白っぽくなることを言う。満開になってやや時間が経ち色の褪め始めた桜が曇天の下で銀のありかを思わせるというのである。まるで桜が銀の鉱脈から生え出たかのような美しい歌であるが、冷え冷えとしている。花の美しさを金属に喩えるという発想には譲らぬ葛原の美学が伺える。葛原は桜と勝負するにあたって、積み上げられてきた伝統的な美学に自らの美学をぶつけた。銀のような冷えた金属質に対する愛好は、湿潤でおぼろに霞むような美しさを好んできた日本の美意識に対する明らかな挑戦である。敗戦を挟んで日本的な美学への疑いを露わにした葛原にとって、桜を詠うことは試練のようなものであったろう。この歌には桜の新しい美しさを模索する彼女の張りつめた神経が感じられる。

 桜の開花は祝祭である。桜前線の北上を語るとき、人が生き生きするのはそれが命をときめかせるからだ。雪国の人にとって初雪はこれから始まる壮絶な闘いの始まりであると同時に、なくてはならぬ遠来の客の到来でもあるらしい。あたりの風景が雪の白さに覆われるとき、見慣れた日常は白布に覆われ一度死ぬ。その瞬間を経るからこそ命は洗われ生まれ変わる。同様に桜も私たちの日常を花吹雪によって覆い、祝祭にしているのではあるまいか。

 遠くない過去、桜はその祝祭性ゆえに死を賛美する象徴ともなった。その魔力は更新され、本当に新しくなっただろうか。

 

 戦後深く湿りたる地にのめりつつおっすおっすと老桜くる

『泡宇宙の蛙』渡辺松男

 

 出番を心得、待ってましとばかりにのし歩く桜。日本の風土が、そして私たちの心が保ち続けている湿った柔らかい部分を桜はよく知っている。前のめりになり我が物顔で歩く桜は、私たちが許せば暴走するかもしれぬ怖ろしい力を秘めてもいる。渡辺は桜の美しさをつくづくと知るゆえこんな想像をせずにいられない。

 母は、まるであの世のように日常を白く染めてゆく桜を怖れている。自分の周りが真っ白く染まってしまわぬよう、家族が暮らした家が桜に占領されてしまわぬよう。桜の美しさに攫われてしまわぬよう、花びらを掃き続ける。