熊本日日新聞02年12月17日
正木ゆう子の第三句集が出た。門外漢である私はたちまちこの句集に惹きつけられ、俳句がいかに可能性に満ちた自在な詩形であるかをあらためて教えられた。
引力の匂ひなるべし蓬原
揚雲雀空のまん中ここよここよ
大いなる鹿のかたちの時間かな
読み終えてみると世界がほんのりと柔らかくなっている。これは女にしか詠めない句じゃないだろうか。なぜ?と問われても上手くは言えない。だが、これまでの世界の見方、感じ方とは微妙に異なる何かがここにはある。蓬の原っぱ、舞い上がる雲雀、ゆったりとした鹿の姿、みんなそれぞれに存在感がある。まるで世界の中心は自分だと告げているようだ。しかも極めて謙虚に、自然に。
身辺の小さな生き物たちも多分、自分こそ中心だと思って生きている。その視線を借りると世界はどんな風に見えるのか。
さて穴にもどるか干潟見つくして
世は斜めほたるぶくろを這ひ出して
一句めは蟹、二句めは蛍になっているのだろう。蟹になって干潟のようにどこまでも広がる泥の世界を見尽くし、蛍になってほんのりと垂れる蛍袋を這い出てみると世界の方こそ斜めだ。これは蟹や蛍がそれぞれの全存在を賭けて得た世界の感触だ。だから真実なのであり、限りなくいとおしい。小さな生き物のひとつである私は共感のあまり泣きそうになる。このような微細な世界の中心に視線を重ねるとき、今までとは違うやり方でもう一度愛を取り戻せそうだと思う。そう、こんな方法があったのだ。
男達が世界の中心を目指して冒険を続ける存在だとしたら、女達はどこにいても自分が世界の中心だと知っている存在だ。世界の中心はどこかにあるのではなく、私自身だ。どんな境遇にあっても、どこに居ても。そう気づくとき世界はじわりと変化する。その変化の手応えがこの句集にはある。