いま、愛の歌 1

— さびしがりやの男達 —

読売新聞02・9・8

 

 おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ恋ひ燃ゆる身を

若山牧水

 

牧水って馬鹿な奴だなあ、とこのごろ思う。たぶん私が大人になったせいだ。牧水は熱烈に恋し壮絶に失恋したが、恋している時も失恋した後も彼の寂しさは変わりがなかっただろうと思う。

自然に対して大らかに心を寄せることの出来た牧水は、女に対しても同様に心を寄せた。しかし、女は海や山河ではない。生きて物思う生身の人間だ。恋に陶酔しきっていた牧水は、相手が人妻であることにさえ初め気付かなかったらしい。手痛い失恋の後、山河を旅した牧水は自らが創り上げた幻想を見ていたことに気が付いたのかどうか。彼の寂しさは、決定的に相互性を欠いた恋の寂しさではなかったか。

正岡子規といい石川啄木といい、近代の男達は総じてみんな寂しがり屋だ。この寂しさこそ近代の抒情の重要な一筋をなす。子規にとっての妹、啄木にとっての妻、男達は身近にいる女達をみな影のように感じ、正視しようとしていない。女という大切な隣人を欠いた近代の風景が寂しいのは無理もない。

後年牧水は妻を次のように詠む。ここには苦い自省とともに妻の寂しさも描かれている。

 

 わが如きさびしきものに仕へつつ炊ぎ水くみ笑むことを知らず