読売新聞02・9・29
「わあ、桜だあ」と叫んだ私の声はたちまち虚空に消えていった。米国の西岸、カリフォルニア州を北から南へ車で走り抜ける旅の途中である。まっすぐな一本道が地平線に呑まれてゆく。道路の両側に乾燥した丘やさまざまな作物の畑が消えては現れ、私は一面に白い花の咲く農場を横切っているのだった。
もし失語という言葉をより広く使えるなら、私はそのころ確かに失語の状態にあった。自分の血や肉となっているはずの日本語が信じられず、短歌が卑小なものに思えて仕方なかった。稚拙な英語で用を足し、アメリカでの二年が過ぎようとしていた。世界を相手に一体どんな言葉が力を持ちうるのだろう。自らの蓄えたささやかな言葉では詠えないあまりにも広い世界があった。そして短歌は日本語と日本の限界をくっきりと私に見せているように思えた。
絶え間なく白い嵐となって花弁が飛んでいる。車窓から飛び込んできた一つをよくみると桜ではない。満開を迎えたアーモンドの花だった。桜だ、と叫んだ私の背後から思いがけず迫り出した桜の記憶。桜が蓄えている日本語の世界。私の言葉は虚空に奪われたけれど、桜は私の背後に付き添い、何かを語りたそうだった。アーモンドの花吹雪に一片の愛憎の沁みた桜が混じって飛んでいった。その行方を私は今も思うのだ。
誰かうしろになみだぐみつつ佇つごとし夕ぐれが桜のいろになるころ
花山多佳子