『現代短歌最前線上巻』所収
もうひとりの私が座っている場所がある。私もときどきそこに行く。空は真っ青に晴れ渡っているのに、風は冷たくて塩っ辛く、目を閉じると涙が滲む。眩しい光と腹を突き上げる海鳴りに攫われそうになりながら、私は待っている。沖を行く鯨の気配を。
カリフォルニア州中部、シリコンバレーから西へ車で三十分ほど飛ばすと太平洋を望む絶壁に着く。北アメリカの西海岸は絶壁続きで、もろい大地が強い波に攫われ、削られて、見ている間にも音を立てて海岸は浸食されている。アメリカン・ドリームというのはカリフォルニアでは今もどこかで生きている言葉だから、その夢の先端が海に迫り出し、こぼれ落ち、波に喰われている、と海が空が自然にそう考えさせる。絶壁に腰掛け、脚をぶらぶらさせながら、アメリカンではない私も何かを夢見、鯨以外の何かも待っていた。少なくとも月に一度、二年半のあいだ通い続けたから、サンフランシスコ郊外のアパートからここまでの運転は体が自然にしてくれた。ただ、一度も鯨は姿を見せたことがないのだ。たぶん、私が遠い沖で潮をふく鯨の気まぐれを見逃していたのだろう。
切実に見たいものを探しながら、私は鯨の回遊のさまを夢想した。ときどき、鯨の幻影のかなたに日本列島が浮かんだ。そしてそのたびに胸が締めつけられた。母国を持つということ、母語を持つということ、そして遠くない将来そこに帰るということ、この幸福な境遇は私にとってなぜか痛みの源であった。アメリカ人になりたかったわけではない。そういう意味では何人であることもいやだった。日本に生まれ、日本に育ち、日本語を生涯話し、さらには日本語の懐深く伝統詩形に関わりというこの上ない豊饒と幸福がかえってこうして大洋に向かうとき、どうしようもなく私を小さな存在だと思い知らせるのだった。私は日本語でしか世界を理解できないのだと。
エミリオは庭師として働いているメキシコ人である。彼が刈り込む生け垣はいつも品良く涼しげである。広大なアパートの庭は彼一人の手に任されていたから、エミリオは休む暇なくよく働いていた。クリスマスのシーズンになると挨拶代わりに今年は国に帰るのかどうかを互いに尋ねあった。飛行機のチケットはこの時期とても高い。家族を連れて帰るかわりに彼はメキシコシティーに住む母親にテレビを贈りたがっていた。病気がちの母が寝室でテレビを見られるようにと。けれどアメリカからメキシコに物を送るのはけっこう難しく、高い関税と輸送途中の事故が彼を迷わせていた。エミリオとアメリカの関係はいつもこんな風に具体的だった。一週間働いて得られる給料、毎朝コックをひねるスプリンクラーの調子、ベゴニアがけっしてこの庭の土に合わないということ。ファストフード店で売っているタコスの偽物の味。メキシコ人にとってアメリカは陸続きの出稼ぎのための土地でしかない。彼はアパートの住人に謙虚に距離を置き、アメリカからも距離を置いて黙々と仕事をした。そしてまっすぐに故郷メキシコを見ていた。
バージニア。私の叔母によく似ていたので初めて逢ったとき、そんな気がしなかった。夫の暴力に堪えかねて身ごもったままフィリピンから逃げ出し、イギリスで働き始めたのが二十代。当時の写真を見せてもらったが、知的な美人で、壊れ物のように繊細に見える。今のバージニアは人なつっこく太い腕をし、どんな駄目な人間も慰めてくれそうな目をしている。フィリピンを出てから六十歳になるまで、ずっと泊まり込みのメイドの仕事を続けてきた。土曜日、一人娘のキムさんと過ごす一泊が彼女の家庭だった。カリフォルニアに来たのは娘の教育のため。キムさんは大学を出て高校教師として働いている。彼女は母の国を知らないアメリカン。母と娘は日曜日には別々の教会に向かう。キムさんに結婚問題が持ち上がったとき、バージニアははじめて取り乱した。母娘で言い争う声がたまたま客として泊まっていた私たちまで聞こえた。You can`t leave me alone !
無償で州が移民のために開いている英語教室でロシアから渡ってきたユダヤ人の老人達は教室の半分ほどを占めていた。きつい巻き舌で、彼らはいつも議論していた。口々に生まれ育ったロシアを批判しながら、かれらははじめてやってきたアメリカをこのまま終の棲家にしようとしていた。もうどこに行くこともない。八十歳ちかいヨセフはカリフォルニアで初めて見たアーモンドの白い花の咲く果樹園を初恋の森と呼んだ。「ロシアが恋しくはないですか?」と尋ねると、口ごもりながら、「そうだね、雪が恋しいね」と答えた。
入れ替わり立ち替わりいろんな国の匂いをさせて老若男女いろんな人々が世界中からやってきた。英語教室は、渡り鳥たちが羽を休める大洋のなかの小島だった。鋭い目をした青年アッシェムはアフガニスタンからやってきた。ソ連軍に抵抗して志願兵となったが、そのうちゲリラ戦となり市民どうしで戦うことになった。長い戦闘。アッシェムの青春は山間の泥の中で費やされた。自分が何のために誰に向けて銃を撃っているのかわからなくなった、と彼は言う。偽造パスポートを手に入れ、カリフォルニアに辿り着いた彼は教室の窓辺の席にしばらくいた。そしていなくなった。
日本から出たことのない父母に遊びにこないかと誘ったことがある。しばらく考えたのち、もう外国を見る歳ではないから、と父が答えてきた。出不精の父ではなかった。むしろ人一倍好奇心が強く、気持ちも若かった。旅を自分のやり方で味わうため旅行会社を使わぬほど準備にも凝った。歳のせいだったか、と何度か思った。だが、父は断念と共に選んだのだった。見ることではなく、一所を生きおおせる、ということを。当時六十代半ばだった父があの時点から自分のやり方で見ることの出来る世界は限られていただろう。その後幾年もたたぬうちに亡くなったのだから。全てが相対化してゆく世界の轟音のなかで、父は自分が見ることの出来たものを世界と信じようとし、そこを生きて死んでいった。幸福な一生だったと晩年の父が語るたび、幸福という言葉の裏に張り付いた断念が透けて見えた。小さな一生だったけれど、一体誰が断念せずに生きられるだろうか?私もまた生き続けたければ自分の見た断片を世界と信じ、何かを選ぶしかなかった。
Oさんも何かを選ぼうとしていた。ユーカリの葉が強い光を受けながら散りかかるアパートの小道で、日本人青年のOさんは週末ごとに海に行く準備をしていた。ウインド・サーフィンが趣味だったが、サーファーというよりはむしろ神父さんのようだった。教会に行くように海に通い、海から教えを受けていた。薬の開発研究所に勤める医者でもあったから、緻密に風を計算し、波を観察し、ノートに書き付けていた。自分の望む風が来るまで何時間でも待ち、双眼鏡で水平線をなぞり、そのまま帰ってくることも少なくなかった。そのあてどなさをむしろ好んでいた。彼もまた海の彼方に何かを見ていた。言葉を放棄した詩人のように。だからOさんが亡くなった後、あの海に彼は歓びと共に偏在しているとごく自然に信じられた。
癌の特効薬の開発に携わりながら、癌に倒れるという皮肉をOさんははどう受け止めたのだろう?夢はあるけれど将来のあてのない研究所生活を終えようとしていたとき、彼は自分で未来を選ぶ寸前で運命に選ばれてしまった。選べることはそう多くはない。だからカリフォルニアに住んで最も辛いのは、希望に押しつぶされそうになることだ。押し寄せる希望を吟味し、観察し、イリュージョンと現実を冷静に仕分けしていかなければあの絶壁からこぼれ落ちてしまう。零れ種が巨木に育つことを祈りながら、例えば神社の背後に茂る木々のようにそこに在ることを信じればいい日本と、何と大きな違いだったろう。Oさんの夢が何であったのか、具体的な事は知らない。知る必要もない。ただ、彼は自分の限られた生涯のうちで見尽くせず、自分の言葉で語りきれないものをありありと感じる人間の一人だった。
海のほかに住めないくせに大気を呼吸するしかない鯨たちを時々可哀想だと思う。彼らはどんな風に眠るのだろう。心地よい夢のまにまに、空気を求めて水面に浮かびにくるのだろうか?大気を取り込むとほっとするだろうか?次に呼吸するまで大気のことを忘れるだろうか?魚の群を追って深海に潜るとき、彼らは不安ではないのだろうか?
日本の大学病院で友人の手術を受けたOさんはカリフォルニアに戻るつもりでいた。彼の容態が刻々と重篤になり、死期が迫っていることは友人達誰もが感じていた。何も出来なかった。奥さんと両親の看護を受け、生まれ育った家で次第に不自由な生活に陥りながら、彼は海の写真を送って欲しいと言ってきた。私は本当に嬉しかった。
Oさんが亡くなって十年になろうとしている。十年ぶん、私は後戻りできなくなり、Oさんはさらに自由になった。
八雲たつ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
一体どんな人がどんな気持ちでこの歌謡を初めて記したのだろう。記紀に残されたこの呪文のような言葉がはじめての短歌と言えるのかどうか、正確なところはわからない。しかし、このごろ思うのだ。この歌謡は遠い遠いところをずっと旅してきたんだろうな、と。父母に見放され、荒ぶる魂のゆえに旅に次ぐ旅を求めるしかなかったスサノヲこそ呪文の主として相応しい。記紀の物語の中で孤独なデラシネにあの呪文が託されたとき、呪文は詩歌としてはじめて意味を持ったに違いない。出雲の山間の美しい緑。見る限り続くこぼこぼとした山や丘の間にある須賀は、この歌が歌われた場所だという。美しいが、他の村ととりたてて違わぬその村に辿り着いたとき、スサノヲは、「ああ、すがすがしい」と言ったと書かれている。「ここでいい、ここにしよう」、と。それまでも、そしてそれからも彼の生涯になかった幸福をひととき囲い、守り、身も心も解こう。新婚の家を言祝ぐこの小さな呪文は愛の歌となって物語の中に居場所を見つけた。魂の喘ぎゆえにどこにも居場所のなかったスサノヲの代わりに。
心というのはなぜこうも置き場のないものなのだろう
私はふたたび日本を選び短歌を選んだが、海を越える以前の自分には戻れない。ときどき、今度は太平洋のこちらから海を見にゆくこともある。そして最近大きく変化したのは、このような人間がけして私一人ではないということに気づいたことだろう。ずいぶん遅い気づきだ。日本の文学の歴史にはこのような人間達によって繋がれている言葉が流れており、私のような分裂はむしろあたりまえかもしれない。孤独を埋めるために読んだ本の中に友人はたくさんいた。大陸や朝鮮半島を仰ぎつつ自らの言葉を立ち上げようとした古代にも、西洋のまぶしさに灼かれながら新しい世界を開こうとした近代にも。そして私は私のやりかたで唯一その内側を生きることのできる言葉としての日本語を愛している。鯨がけして海を離れることのないように。
哀しみと愛(かな)しみはひとつ遠く夜の古木ま白き桜花を噴きぬ