短歌1996.5
余計ごとであるが、私は岡井のあのちょんまげ頭が好きである。サスペンダーつきズボンにあのヘアスタイルでいるところは、ちょっとぐっとくる。ちなみに私の父は、岡井と同じ年であるが、どてらの裾から股引ののぞく典型的な初老の父親として収まっている。失礼ながら、比較すると岡井がそういう年齢の男らしくないことは明らかだ。この "らしくなさ" は岡井の執着しつづけたスタイルであり、彼は医者らしくなく、父らしくなく、夫らしくなく、今は大学の教師らしくなくあろうとする。
また、六〇年代、七〇年代といった時代の物語の渦にも紙一重のさめた距離をおき、そしてそこを離れたことは既に伝説となっていよう。そうした "らしさ" のもたらす物語を岡井ほど鋭敏に警戒しつづけた作家はいない。それはたぶんそうした "らしさ"の磁場が呼び込んで造り上げる一塊の言葉のオブジェが、一方では言葉それ自体の独立性と可能性を怪しいものにする情緒の牢獄でもありうるからだ。岡井はその点で、徹底して事柄より言葉を信じ、言葉に奉仕する詩人であり続けたといえるだろう。
つきづきし家居といへばひつそりと干すブリーフも神の仕事場
神という言葉がこれほど危うくリアリティーを持たない国は少ない。そうでありながら神がこれほど陰微に陰を引いている国もない。そのことの幸と不幸を空気のように吸って私たちは生きている。〈神の仕事場〉もつまりそのような陰微な空気を満たした言葉の工房であり、〈つきづきし家居〉は一人暮らしの男の部屋という私小説的な雰囲気に重ねた、短歌という家での永い家居ということにもなるだろう。この歌を含む『神の仕事場』は、一面では歌とのかかわりそれ自体がテーマとなった歌集であるとも言える。
岡井は、歌を〈原罪〉と呼び、また〈日本語にとって消すことのできない母斑〉とする(『西欧の世界』)。情緒、言葉、システム、歴史、すべてがないまぜになった罪禍と至、言葉を愛する者の、歌の含みもつそうしたなべてへの自覚の痛みそのものが、言葉を突き動かしているようにも見えるのだ。ブリーフと神といういわばもっとも陰微なものをならべ、あえて明らめるところには、〈母斑〉を〈母斑〉としてそこにあることを指さすことによって成り立つ自立と自律が危うく滲んでいる。そしてそこに岡井の言葉への執着の現在があるように思うのだ。
さびしいが此のさびしさはおのれより生まれて広がる水の朝や
ことごとく春の匂ひに包まれて差し出されてくる外部が怖い
見開きに並んでいるこの二首はおそらく意図的に、鮮やかに岡井の現在を告白している。言葉に導かれて行けるところまで行き、言葉の広がり届いたところを居場所とする他ないという覚悟と、またそうした言葉が必然的に失ってゆく外部や他者への畏れのようなもの。言葉の幸も罪もその微差を嗅ぎ分けてゆくことによってしか現れない地点は確かに存在する。そこまで降りておいで、と小声で語りかけているようでもある。