「かばん」99,5
「かばん」が十五周年を迎えるという。これは短歌の世界にとっては特別な気分で迎えたい出来事だ。かばんは近代以来の結社とも、文学臭濃い同人誌のイメージとも違った集団の可能性をさりげなく私達に示してくれた。初めはムーミンの村のようなほんわりした魅力で現れ、あれよあれよというまに数々のスターを生み出し、魅力的な磁場は今やどんどん膨らんでいる。いま私が考えているかばん十五周年の特別さというのは、こうした集団の新しい在り方が、実は現代短歌の平野で蠢いている言葉の共同体の運動や変化と密接に関わるのもではないかということだ。たぶん二十年前なら存在できなかったような在り方でこうした集団が存在し成長し続けているという事そのものが短歌の内側からの変化を証すのではないかと思う。
このまえ息子に一家で使える国語ものしり大図鑑というのを買ったら穂村弘の歌が載っていた。
はしゃいでもかまわないけどまたがった木馬の顔を見てはいけない
息子はたぶん重厚な近代の歌よりはこういう歌の方に親近感を覚えている。じつはこの歌はかなり難解だ。イメージと結句の禁止のインパクトを手渡した後、大方の読者を読みの孤児にしてしまう。ここからどんなメッセージを受け取ったらいいのか?しかし息子にとっては見たこともない<坪庭の雪割草>やら<かへるでの赤芽>やら<納屋の梁>などよりはともあれ映像として思い浮かべやすいらしい。木馬はスーパーマリオの乗り物(んー、何という名前だったっけ)のように彼に親しく、ここからなら入ってゆける。ここでのメッセージとは、ともあれ描かれたイメージをそれとして十全に受け取った者に共鳴しつつ波紋のように広がる性質のものだ。つまるところ、この木馬のイメージに体温を持って入ってゆける読者と作者による共同体が最終的には必要になる。かばんという集団は何よりもこうした言葉の創造と享受に関わる共同体として存在し、いまや大きな存在感を示しつつある。私はだからといって歌の近代が終わったのだとか、反対に歌はそもそも死語の巣窟なのだからこれは歌ではない、とかいう結論を導くつもりはない。この言葉の激動の中で、かばんのような新しい集団が投げかけてくれるのは、新しい言葉の共同体の在り方であり、そこで起ころうとしている歌の読まれかたと読み方の問題である。
かばんの表現の特徴は、先に書いたような直接には手に触れることのない(あるいは手触りを必要としない)イメージの連鎖と反響によって成立するところにあると言える(むろん例外はあるけれど)。この事については98年11月の新人特集号で、穂村が書いた、「イメージの功罪」という文章がある。話題になった「わがままについて」(短歌99年10月号)を併せて読むととてもうまくかばんの歌の傾向と性格も説明されるように思う。この文章中では<心から言葉へというストレートな図式が見えることは少なく、多くの場合、その中間に複雑なイメージの広がりが感じられる。歌歴の長短に拘わらず、作者の多くは言葉でイメージを扱うことに慣れており、自分自身の快感に対して順接的な表現をとることにためらいがない>というかばん新人層の表現の質が語られる。同時に、<心と言葉との間の距離を余りにも広げてしまう>危険、<イメージとは原理的には無限に増殖してインフレ可能なもの>であることを指摘する。穂村はこれを防ぐ手だてとして<自分なりの殆ど直感的な規範>を言う。確かに増殖し一人歩きしかねないイメージを表現として律するのはこの直感が頼りだろう。しかし、これが唯一だろうか?
これらの文章を読んで最も強く感じたことは、一種の孤絶感だ。孤絶感そのものをエネルギーとしているといってもいい。イメージの律しかた自体にもこの孤絶の厳しさと美意識が反映していると言える。井辻朱美の第一歌集地球追放が、地球からの追放ではなく追放されて地球に来たという意味なのだと何かの機会に知って深く納得したことがあったが、そういう孤絶感、あらかじめ既存の共同体と関わらないことによるイメージのカルチェラタン(そうとう古いな)の自立と自律とが作者であることを保証している。
井辻のウイーン旅行が背景となっている近作、
この石の街はどこからか吹いてきてほんのしばしの惑星の瓦礫
(短歌三月号)
などに見えるのは、現実の街であるより先に遥かに絢爛とできあがっている物語の街だ。現実のウイーンはこの物語の街を食い破れず退いてゆく。あらかじめ非在の空間に心を預けてこの世を眺めているような哀しい涼しさ、気の遠くなるなるような時間の経過の感触だけが残る。
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ東直子
この歌は<あなた>に取り残されることで心の磁場が強くできあがってゆく感じが印象的だ。カヌーも湖も不思議なほどなめらかで静かであり、手触りをもたない。むしろこうして物体の<感じ>が退くことでより純度の高い<心>は形を持ち始める。
鳥のように子供は泣きぬしろじろとテトラポッドが囲む小島に
入谷いずみ
きんいろに燃ゆる目をした黒猫のうずくまりいる雪原の果て
大月晶子
ポスターに刺した画鋲は夕焼けが宇宙に変わるラインを向いて
千葉聡
きりぎりす卓布にとまるその青よ好きだつた人の言葉のやうに
古谷空色
魅力的な歌はまだまだ何首でも引けそうだ。洗練されたイメージは、それぞれの作者によって律された張りを持ち、それぞれに世界への愛や憧憬を滲ませる。こうした磨かれたイメージが光を蓄えて自立ながら、しかし、決してこちらを責めたてたり浸食したりしないことに居心地の良さとかすかな不安の両方を感じてしまうのだ。それは、一人の作者を読むときよりはかばんという共同体を思うときより強い。
例えばもしこれが<わがまま>ならば、我侭はそれを聞く大人がいてはじめて成立する。<わがまま>を受け容れ聞くのは愛だろう。愛するのか愛さないのか、作品が<読める><読めない>はひとえにこの愛の有無にかかわる。言うまでもなくこの共同体は愛されるのに充分な魅力と力を備えている。しかし、あるいはそれはあくまでも一方的な愛の希求であり、それぞれにさまざまに希求されている祈りや愛の純粋さや強度をそれとして眺めるしかないのではないかとも感じてしまう。私のような別の意味で我侭な人間は、愛した後は愛されたいと願う。つまり、ひとりの<他者>として。<他者>との関わりゆえに生まれる相互性や摩擦や不協和音や雑音や共鳴は、いわば愛の相互性というものだろう。それらもろもろの作者と読者の相互性は時には不快であってもいいのじゃないかという気がする。穂村の論は優れたものだがあくまでも自分語りであり、そこを踏み出さない事によってインパクトを持つ。だが、<他者>を持たない感じがやはり気になるのだ。あるいはイメージの自己増殖を食い止め、あるいは心と言葉との関係を保つのに、この<他者>の気配は役に立つし、また必要ではなかろうか。
かばんのようなユニークな集団が造り上げた言葉の磁場はまちがいなくもっともっと大きくなってゆくだろう。しかしこの言葉の素敵な共同体の外にはさらに多くの共同体がいくつもある。そこに橋を架ける言葉を得ること、<他者>を語る言葉を持つことはこの共同体の言葉やイメージをさらに強く素敵に磨いてゆくに違いない。私はかばんの作品の音楽性や祈りの余韻を愛しているけれど、やっぱりいつまでも片思いは切ない。