オノマトペの効用

通信教育テキスト

 

短歌には現在実にさまざまな表現技法が使われて表現の幅を広げていますが、その中でもオノマトペは最も愛されてきた技法の一つと言えるでしょう。オノマトペは、擬態語、擬声語とも呼ばれ、物事の様子や音、声などを単純な音韻を使って表わします。例えば「風がそよそよ吹く」という場合の「そよそよ」がそれです。別に風は「そよそよ」などと言いながら吹くわけではありません。これは、わたしたちが風の吹くさまをより分かりやすく、その感じをうまく伝えられるようにと工夫した表現なのです。

 短歌にはオノマトペが大変多く使われ、説明しがたい情感や状態などを実に的確に深いところで表現している例があります。三十一音という短い詩形であるにも関わらず、むしろそれゆえに短歌にとってオノマトペは大切な技巧でした。現在、複雑になる社会の中で言葉になりにくい感覚を表現し、人間の原初的な感覚を引き出す技法としていよいよ大切にされています。

 まず、戦後まもなくの表現から。戦後は従来の価値観が壊れ、戸惑いのただ中にありましたが、一面ではそれまで隠され覆われてきた人間的な心の奥行きや思想が堰を切ったように表現された時期でもありました。

 

 公園の黒き樹に子らが鈴なりに乗りておうおうと吠えゐる夕べ

 『乳房喪失』中城ふみ子

 

 この歌は乳癌で余命いくばくもない若い歌人によって歌われています。「おうおう」は子供達の声ですが、普通の子供の遊ぶ明るい声のイメージとは違って何か異様なものを感じさせます。中城は子供を持つ母親でもあるのですが、この歌では子供達の樹に乗り遊ぶ姿はけして普通の母親の目では見られていません。第一に樹は明るい緑ではなく、逆光で撮った写真のように暗く突っ立っています。死を見つめる作者にとって、その黒い樹に群がりいまを盛りの命を誇示する子供達の声は遠い嵐のようであり、獣の咆哮のようでさえあるのです。まるで命の輝きをふと陰画にしたような、裏側から眺めたような重量感が表現されています。「おうおう」は死に向かって微妙に屈折し深まってゆく心理をいっそう深く表現するオノマトペなのです。もしこれが他のオノマトペであったならばこれほど子供達の発散している命の重い迫力は伝わらないでしょう。例えば「わあわあ」「きゃーきゃー」など、ちょっと入れ替えて試してみてください。

 オノマトペという技法を考えるとき、これほど女性によってうまく使われ広げられてきた技法はないのではないかと感心することがあります。それほど女性にとってオノマトペは親しく、表現を豊かに開く役割をしてきました。

 

 わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり

 『森のやうに獣のやうに』河野裕子

 

 この歌の作者、特に初期の河野裕子はすぐれたオノマトペの使い手の一人だと言えます。恋人である男が怒った勢いで少女(作者)の頬を打ってしまいます。その直後、打ってしまった男の方が泣きたいような表情を見せたというのです。「わらわらと」は、一瞬の心理の微妙なそして最も柔らかい変化を実に的確に表現しています。映画の一シーンを見るようですが、それよりはるかに深く若い恋人同士の傷つきやすい愛の表情を描いているといえるでしょう。河野は、女性独特といってもいい動物的な直感によって事物の本質をズバリと捉えますが、ここでの「わらわら」には男の表情の変化のみでなく、男の秘め持つ崩れるような柔らかさも見えます。なにか言葉が直感に追いつかないかのような若々しい感官が呼び寄せたオノマトペと言えるでしょう。

 もうひとつ女性の作品をご紹介しましょう。

 

 東北のバッコス祭りどすどすと酔ひて重たき秋を踊れり

 『葡萄唐草』馬場あき子

 

 この歌では祭りの宴の様子が「どすどす」というすこし剽軽なオノマトペで表されています。「どすどす」は重たい生き物が脚を踏みならす音としてよく使われますが、ここでも酔った人々が脚を踏みならし踊る様を表しています。実りの秋、東北の大地と格闘してきた人々のひとときの宴です。バッコスはご存知のようにギリシャ神話の酒の神様です。東北という土地の神様ではありませんが、作者は人々をバッコスと捉え、その踊りの姿を遠い神々の姿と重ねるのです。「どすどす」は、人々の生活の確かな重たさと深さを暗示しつつ、ひとときの宴の賑やかなほほえましい姿をくっきりと表現しています。どんな言葉で説明されるよりこのリズミカルな音韻に祭りの気分、人々の気分はこもっているでしょう。このオノマトペは実に効果的に東北という土地の懐深さとそこに住まう人々のなつかしい表情を表わしてもいるのです。土地にこもる気分といった実に表現しにくいもの、大地からたちのぼる香りをオノマトペによって機敏に捕まえ得た歌です。

 さて、これまで見てきたようにオノマトペは基本的には意味に還元できない音韻によって物事の様子や声や状態などを表現するのですが、むしろそこを逆手にとって、オノマトペに意味を匂わせることで成功した作品もあります。

 

 熊蝉のわしわしと啼く命懸すさまじきぬばたまが夜は待つ

 『青の風土記』伊藤一彦

 

 この歌は宮崎を故郷として愛し、住み続ける作者によって詠まれています。南国の濃い陽射しの下で力強く「わしわし」と啼き続ける熊蝉の迫力は大変なものです。熊蝉の鳴き声としてこのオノマトペは特別なものではありません。たぶん百人中九十人くらいは熊蝉の鳴き声をこのように表わすでしょう。そのまま夏の盛りの熊蝉の昼と夜の歌として読んでも味わい深い作品です。しかし、この作品の面白さは、この「わしわし」に、「わし」つまり「わたし」の意味が込められているところにあると私は解釈します。命の限りに「私、私」と啼く熊蝉にはなんとか自分の夢や希望を果たそうと「私」を懸けて生きる人間の姿が重ねられているのではないでしょうか。しかし、その必死の鳴き声よりも濃い闇が夜には蝉たちを、そして人間を包んでしまうのです。この闇は故郷の闇であり、近代や現代以前の力強く濃い闇です。作者は熊蝉の「わしわし」の命がけの啼きに自らの「私」を託しています。しかし、同時に「すさまじきぬばたま」の来ることも知っています。まるで闇と「私」とが拮抗し闘っているような内的世界が熊蝉の鳴き声を通じて表現されてもいるのです。

 またそれとは反対にオノマトペを純粋な音韻として意味を排除することで新しい表現の先駆けとなった歌を見てみましょう。

 

 いずこより凍れる雷のラムララムだむだむララムラムララムラム

 『天河庭園集』岡井隆

 

 この歌はやがて鳴り出す雷の気配を音で表現したものですが、一首の殆どが音を表す言葉で埋め尽くされています。どこかしら遠くで雷が鳴ろうとしている。夏の雷ではなく冷えた空気の中でその気配だけがくぐもるように響いてきます。ドラムの音のような「ラムラムララム」などを眺めているとだんだん雷の気配が活気づいてくるのを感じないでしょうか。これは視覚的な活字のリズムからやがて音楽を思い出すように音韻となってゆくオノマトペの効果です。何を言わなくともオノマトペは私達に目や耳の感覚を刺激し言葉を伝えます。そうした効果を存分に計算して造られたのがこの歌なのです。

 さて、現在の最先端の短歌表現はさらに斬新なオノマトペを造り上げています。

 

 にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった

 『ハレアカラ』加藤治郎

 

 どうでしょうか?一見実にわかりにくい歌です。この歌は湾岸戦争を背景にしているのですが、それに限らず戦争一般への直感的な嫌悪を表現した歌として知られています。「ゑ」は旧かなで使われますが、ここでは旧かなとしてではなく、もっと視覚的な効果を狙って使われているのです。ずらりと並ぶ「ゑ」は発音してみると実に不快になってきます。そしてしばらく見つめていると、釜飯の表面に並べられた鳥肉の断片にも見えてこないでしょうか。それと戦争がどんな関係にあるのだ?と疑問になりますが、現在の戦争は私達が武器を持ち人を殺すのではなく、まるでテレビゲームのように画面の中でミサイルが飛び砲弾が破裂する戦争です。高度な文明が生み出した戦争は直接には何の手触りもなくしかし確実に人を殺すいよいよ不幸であり不気味な戦争です。自分がいま、目の前にしているのは釜飯であり、眺めているのは鳥肉の断片ですが、そこに重なってくる戦争の<感触>はこの「ゑ」の行列のようなとりとめなく五感に訴える不快と不安として迫ってきます。これは従来のオノマトペの枠をはみ出すスーパーオノマトペとでも言える表現でしょう。

 「まんま」や「ぶーぶー」など幼児の喃語を思い浮かべると、私達人間が初めて発する言葉はオノマトペにとてもよく似ています。言葉として未熟であり、それゆえ直感的に物事の本質的な性格を捕まえうる言葉がオノマトペでもあるのです。複雑になってゆく社会のなかで、そうした原初的な言葉が表現の再先端に出て来つつあるというのはじつに興味深いことです。