韻文世界と世界文学の交差点

— 高野公彦、伊藤一彦、小池光に見る韻文の現在 —

初出「歌壇」97.8

 

『未知の言葉であるために』所収
 

1. 韻文と世界が出会うとき 

 少し回り道をしてみたい。

 一九六八年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した折りの講演、「美しい日本の私」と一九九四年に大江健三郎が受賞した折りの講演、「あいまいな(アムビギュアス)日本の私」の日本文学の世界へのアピールはどちらも私にとってなにか奇妙な違和となまなましさを感じさせるものだった。この二つのスピーチは、あらかじめ世界に向けて日本の文学を語ることを意識して書かれているために、そこには二人の作家の個性や立場の違いにとどまらない日本の言語空間の問題についての象徴的な対話があらわれているように思え、話の糸口となるのではないかと感じている。ふたつの講演を隔てる二十六年の間に日本の社会自体が大きく変貌したが、しかし、そうした背景的な変貌のもたらす問題の以上にここには今日に至る日本の言語空間の問題の切り口が鮮やかに二つ向き合っているような気がする。それは、韻文であるゆえの、体や記憶に深く根を張った音韻やイメージの問題と、そうした言葉と作者の密接な関わりとは別の脈絡から入ってくるテーマとの対立である。

 「美しい日本の私」は、このように始められる。

 

『春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり

道元禅師(1200-53)の「本来の面目」と題するこの歌と、

 雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷めたき

明恵上人(1173-1232)のこの歌とを、私は揮毫をもとめられた折りに書くことがあります。(略)わたしがこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思いやりの歌とも受け取れるからであります。雲に入ったり雲を出たりして、禪堂に行き歸りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え聲もこはいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷たくないか。私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深いこまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人にかいてあげてゐます。(略)「雪、月、花」といふ四季の移りの折り折りの美を現はす言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現はす言葉とするのが傅統なのであります。』※1

 

 私がこの講演の全部を読んだのは、最近のことだ。読みながらなにかしら痛ましい思いが湧いてくるのをどうしようもなかった。ここに道元、妙恵から良寛、一休へ、また古今、新古今、源氏へと語り進められる日本文学の道筋について異議を唱えるのではない。もとよりそんなことを語る力は私にない。しかし、日本の言葉の美として語りながら、同時にそれがなぜ美しいのかについても説明し、さらには日本の美しさとはこういうものなのだと定義する、美しさを日本の心と言い換えてもほとんど同じにみえる語りかけにはなにか際限のない自分語りの回路があり、語れば語るほどそこに川端の言葉は閉ざされてゆくように感じたからだ。大江健三郎は同じ受賞者としてのスピーチでこの川端のスピーチを取り上げ、婉曲に批判している。

 

『現代に生きる自分の心の風景を語るために、かれは中世の禅僧の歌を引用しています。しかもおおむねそれらの歌は、言葉による心理表現の不可能性を主張している歌なのです。閉じた言葉。その言葉がこちら側に伝わってくることを期待することはできず、ただこちらが自己放棄して、閉じた言葉のなかに参入するよりほか、それを理解する、あるいは共感することはできない禅の歌。どうして川端は、このような歌を、しかも日本語のまま、ストックホルムの聴衆の前で朗読することをしたのでしょう?この秀れた芸術家が晩年にかちえた、率直で勇敢な信条告白の態度を私は懐かしく思います。小説家としての永い労作の遍歴ののち、みずから理解を拒む表現であるこれらの歌に魅きつけられていると、そのように告白することによってしか、川端には自分の生きる世界と文学について、つまり、「美しい日本と私」について語ることはできなかったのです。』※2

 

 川端が、「美しい」という形容詞を冠するために打ち捨てた問題はあまりにも大きい。例えば過去の戦争をどのように担い取り込むのかといった問い、あるいはまた他言語や世界が共通して抱えつつあるテーマ、人類という主語をどのように抱え、またそこから日本人であることをどう考えるのかといった問いは、すっかり打ち捨てられている。そのうえで、和歌や茶道、禅、源氏物語などに触れながら西洋に相対する東洋、その中の日本の美意識の絶対性と無や死についての観念の超越性が語られ、私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思つてゐます。ともどかしげに結ばれる。川端がついに説明不能なものとして閉じるほかなかった日本語の言語空間の美や精神性は、日本の神秘に対する憧れやエキゾチズムをかきたてたとしても、それが何なのかについて外にむかってなにかを語り得たとは言えないだろう。それはひたすら憧れられるべき対象ではありえても、積極的に生きてうごめく世界に向けて自らを位置づけ、メッセージを放つ力強さと客観性に欠けている。考えて見れば、川端の立場は究極的には翻訳それ自体を拒むものだともいえるのではないか。

 わたしはこの川端のスピーチをこのような気持ちで眺めながら、しかしそこに時代錯誤だと言ってしまえない何かなまなましいものも同時に感じてしまう。注目したいのは、散文家である川端が、なぜあえて韻文である和歌を取り上げ、縷々語ることに費やしたのかということだ。それは、日本の文学はやはり歌に始まり歌に尽きるというような美意識や価値判断とは別のところで働く何か、それがごく自然に韻文を選ばせたのではないか、そんな気がしてならない。道元の先の歌に託して川端が語っている雪月花への思い、たとえば雪は、その恐ろしい力を白い狼に例えるようなシベリヤの平原の人々にはただちに共感されようはずもなく、また雲に隠れる月のはかなさは、刃物のような砂漠の月の光しか知らぬ地方の人々のこころにそのままでは沁みるはずもない。川端がここで語り重ねているのは言葉それ自体に蓄えられた歴史的な記憶と心の厚みへの哀惜そのものである。さまざまに古人を、古歌を呼び出しつつ川端が語り重ねているのは、自分の拠って立つ言葉の時間的、空間的厚みであり、その言葉に託されたもろもろの生の濃縮された何かであり、それを知り味わい、言葉と一体になることによって歴史化されてゆく自らの心であろう。しかしそれは同時に、ある言語を共有する人々によってのみ抱かれるほかない韻文の閉鎖性を運命とし自明としてもいる。川端が、散文ではなく、歌を世界というテーブルに連れ出したのは、言語空間がそうやって閉じてゆくとき逆に持つことになる力、記憶や心の濃縮されてゆく磁場としての韻文の求心力を最終的に自分の力とするという文学への意志表明ではなかったのか。

 こうした問題について反対の立場をとる大江は別の場面で次のように語ってもいる。

 

『まず私には母国語で、マザータングというか、母に習った言葉で書くということがある。しかも、私は自分が日本語で書いたものを、それをほんとうによく日本語を理解してくれる研究者が翻訳すれば、世界のどこにでもその国の言葉の文学として理解されてゆくということを目指しています。そしてそれを普遍的な言葉というものだと私は考えているのです。(略)そしてそれによって日本人固有のもの、日本人の深いものって、それはありますよ、それを表現したい。そうすれば、表現された日本人独自のものが、世界全体の知恵になる、というのが私の考えです。』※3

 

 この大江の発言は普遍性に対して開かれてゆくべきだという点において共感するが、しかし、意味に還元し得ない言葉、ことに韻文的世界の大きな魅力である言葉そのものの美や味わいが視野に入っているとは言いがたい。さらに、ある言葉で書かれた文学と翻訳との関係に関していささか楽観的なのではないかという感じも否めない。韻文世界は、その閉鎖的な性格のゆえに逆に力を湛えているのではないかという感覚はやはり捨てきれないのであり、それは韻文に関わる私自身の問題としてさらに深い。そうだとすれば短歌に関わる私はやはり世界という他者や普遍性を夢想しつつどこかで断念するほかないのだろうか。

 もし、韻文のもつ閉鎖性への志向が、古歌古典の世界に限られるなら、それは過去のこととしてむしろ安らかに語ることもできるだろう。だが、川端のスピーチが感じさせるある種の生々しさは、短歌という韻文は、宿命的にそうした閉鎖性や求心力をその性格として抱えているのではないかと感じさせることにある。それは、例えば雪月花のような雅語によるような固定した言葉の制度の問題としてではなく、求心力や閉鎖性それ自体をつねにあらたに再生することで力を持つような韻文性の現在の問題である。そうであれば、例えば人類という単位でわれわれが現代人として普遍的に問いを負うこと、あるいは、世界という地平のどのような位置に自分が立っているのかということ、これら、散文ならば容易に参加することのできる普遍的な文脈は短歌にとってはすんなりと流れ込めるものではないかもしれない。世界と韻文との間にはまだ痛々しくつながらない何かが残されており、現代短歌はまさしくその裂け目に多くの問いを孕んで苦闘しているのではないか。現在の短歌が韻文として負っているそうした葛藤の断面と思われるものを、私の愛読してきた作家のうえに探ってみたいと思う。

 

2. 美の磁場の変容高野公彦

 翻訳を拒む表現というものがある。とりわけ韻文にはそれが書かれた母国語から外国語への飛躍は大きなギャップをともなってあらわれよう。もし翻訳されてしまえば伝えるべき意味はほとんど何も残らず、しかし原文のままでならば大きな存在感を持ちうるような表現についてどう考えればいいのだろう。

 

 精霊ばつた草にのぼりて乾きたる乾坤を白き日がわたりをり

 高野公彦『汽水の光』

 

 高野のこの歌は、バッタが草に止まっており、そのはるか上空を太陽が渡っていったという、意味にしてしまえばそれだけの内容しかもたない。しかし、この歌から私たちが受ける言葉の奥行き、広がり、存在感はとうていこうした意味には還元しようもない。ここでは精霊バッタの精霊の文字が呼び覚ますあえかな魂の存在の予感、天空でも宇宙でもなく乾坤であることによってうまれる音韻の澄んだ広がり、またわたりをりの言葉選びなどが、読む者にイメージと奥行きのさざ波のような広がりをもたらす。さらに、乾きたるが順当に乾坤にかかる読みの他に、ばつたにかかる可能性を考えるとその曖昧さも文語独特の襞を感じさせる要素となっていよう。つまるところこうした表現の味わいそれ自体は、日本語に深く屈み根付くことによってそこから生え、日本語の記憶と解釈の共同体のうちに育まれてきたものだ。高野は、そうした言葉の共同体のたたえる力を自らの根拠にし、意味をはるかに超える何かを現すことに歌の生命力を見いだしてきた歌人である。

 それは例えば、

 

 白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり

 『汽水の光』

 方位なき暗闇の中寝返ればうゐのおくやまゆめ揺れにけり

 

 といった歌に対して大岡信が、これら粒揃いの歌が集まって作り出した歌集全体の印象が、つつましく内部にみずからをおりまげ、いわば俯し目がちにみづからを閉ざしているという感じが強いことをも指摘せずにはいられない。と危惧を示し、また、坂井修一が早すぎる調和は生産性を落とし、遅すぎる調和は成熟の機を失わせる。しかしながら、公彦は二十代にして両者の不可思議な同居をあるがままに表出してみせているのである。と語るように、初期高野の言葉はその是非を押し返す調和と完成度とをもって自立した空間を形作っていたと言えるだろう。高野の世界は、その圧倒的な言葉の美しさによって自立し、またそうした言葉の世界に向けて激しく内向することを時代への抵抗とし、また方法として自覚的に選び取っていたとも言える。

 

 英霊は寒がりゐるかナイターの濃すみれ色の夜空の果に

 『汽水の光』

 日差し濃き基地をめぐりてわが額に刻印されし金網の影

 

 着替へする妻の脾腹の白かりしこと朝戸出のひかりにおもふ

 

 見るという限定された行為に集約される濃い精神の能動性は、これらの歌に高野の言語空間の最も膨らんだ一点とそこに鋭敏に接する未知を伝えてくる。先の歌などにも虚空という未知に向かって差し出された言語空間の緊張感は紛れもないが、ここには、言葉を操るという行為が世界に対して持ちうる力への期待と断念がもろともに拮抗しているさまがより鮮やかに見えよう。またここには自ら操りうる言語の精緻をつくしてその外の茫洋と広がる未知や非知を感受しようとする濃厚な意志がある。これらの歌に感じられる言葉の世界の外に広がる世界は、言葉に働いてそこにリアリティーをもたらしているともいえる。そうした、未知への期待と断念との拮抗する緊張が、高野に一つの抵抗としての言語空間の美の世界を創造させてきたといってもいい。

 こうした高野の歩みの上に立つ最近作『天泣』には、

 

 星青きヘカトンバイオン眠る間もあはき泪が眼を洗ふ

 

 白藤の花に憑く蜂、日を浴みて静止飛翔せり人死にし昼

 

 スピカまで二〇〇光年コンビニへ水買ひにゆく暗き夜のふけ

 

 がある。これらの歌はいずれもこれまでの高野の言語空間のうちにあってその言葉の摂取の仕方はさらに自在だという印象を受ける。ヘカトンバイオンはギリシャ語で一月のことをさすとあるが、こうした異質な言葉も、高野の言語空間のうちに取り込まれるときあらためて艶を帯びてゆく。この言葉を再びギリシャ語に訳しなおしたとしたらこうした味わいは形をとどめるとは思えない。二首目の静止飛翔にしても同じだ。三首めのコンビニも不思議な美しさへと昇華している。異国語やさらには風俗もまぎれもなく高野の韻文世界の言葉となっており、そこではむしろ異国語や風俗に濃厚な日本語の韻文の奥行きが託されているともいえるだろう。また、そうした言葉の摂取の貪婪さ柔軟さによって高野の世界はさらに大きく膨らんでもいる。

 しかし、逆にそうした言葉の包容力がそれゆえにもたらしている問題も生まれつつあるのではないか。

 

 胸うちに濃霧を秘めてゐるやうなひそやけき子に式子を教ふ

 『天泣』

 やはらかきふるき日本の言葉もて原発かぞふひい、ふう、みい、よ

 

 紫陽花にかがむわが影殺人と未殺人とのあはひを生きて

 

 これらの歌の言葉としての繊細さは魅力的だが、しかし、歌われた世界が柔らかに言葉にくるまれて退いてゆく感じが気になる。一首目の少女の雰囲気は美しいが、どこか理想像のなかに幽閉されているようでもあるし、二首目の原発の存在は言葉と遊離しつつあるのではないか。三首めの歌の深い生の不条理はあまりにうまく言葉にくるまれていよう。こうした歌では、かつての高野には断念として現れたような非知、未知の存在が希薄でもあり、あらゆるものが言葉で包まれてゆく感じが気になってしまう。歌の言葉が翻訳を拒むとき、同時にそこには翻訳可能な普遍的な対話を拒む内向的な力が働かないとは言えないだろう。究極のところで翻訳を拒む韻文のエッセンスは、高野の世界に非常に柔らかく美しいニヒリズムの魅力をもたらしていたが、それは同時に断念されるべき外部を伴っていたとも言えるだろう。抵抗すべき外部の見えにくさは、広く社会を覆う一般的な状況でもあるが、それは高野の韻文世界にも限りない受容による外部の喪失という困難を強いているようにも見える。

 

3. 故郷を失う故郷伊藤一彦

 日本語が日本という土地と深く関わっているように、言葉に力を与える場所というものがあるのではないか。それは言葉の根拠となりうる錘のようなものである。例えば先の大江が語るような普遍的な言葉というものがにわかに想像しにくいのは、言葉というものがかなり深くそうした背景と結びついているとおもわれるからだ。いかに抽象概念を操るようであっても言葉はそこに何らかの場を根拠として求めるものなのではないのか。

 

 地方なるフィクションに拠らむあやふさを忘るるまでのこの荒磯海

 伊藤一彦『海号の歌』

 この歌を起点に、伊藤の故郷との関わりについて大辻隆弘は

 

『彼が求める故郷とは地理学上の土地という意味では決してない。それはもっと形而上学的な意味をもった「情報化されないもの、数字化されないものの集積」としての故郷なのだ。もちろん伊藤は、自分が希求するそんな故郷が高度情報化社会とは相入れないものであることを知っている。とすれば、伊藤の求める故郷は、「日向」という擬制的な「フィクション」として、宮崎という実在の土地の上にオーバーラップされざるをえなくなってくる。みずからの根拠としての故郷を求めながらそれを擬制的なものとしてしか規定できない苦しみ。逆説的な言い方にはなるが、『月語抄』(昭52)以来、伊藤が歌う故郷やその自然が理念的な美しさを保っていたのは、そのせいなのだ。』※4

 

 と述べる。伊藤の歩みを遡るとき、確かにそこには風土記的な土地としての故郷の姿はみえない。むしろそうした一般的な近代以来の故郷という場に対して常に緊張した関係を造り、そこに自らの内面的な居場所探しを重ねてきたのが伊藤の世界だったとも言える。それは、定型という求心力の強い詩形への対峙の仕方と重なりながら、大辻の語るように形而上学的な言葉の磁場を造り上げていたと言えるだろう。ここでもう少し故郷にこだわって読んでみると、そこにはさらに早くからあった言葉の根拠をめぐる闘いが重なって見えてくる。

 

 漂白のこころもつときあかるくて余白のごとき一本の河

 『瞑鳥記』

 輪廻とはいかなることや灯を消ししのち一家にて聴く青葉木菟

 『月語抄』

 橘の名を愛しつつあさゆふに渡れる橋がつなぐ吾と吾を

 『火の橘』

 風土とは殉ふものにあらざりき峠より瞰る海はしづけき

 『青の風土記』

 一切の詩嚢を捨てよ恋島のむかうかがやく青日向灘

 『森羅の光』

 

 こうしてたどってみると伊藤の初期の故郷はあきらかに抽象的な姿をしている。そこから歌集を重ねるごとに次第に地名や風景をともなったより鮮明な輪郭をもった故郷が現れてくるさまが見られる。これをどう考えればいいのか。より抽象性の高い場としてあった初期における伊藤の故郷は、言い換えれば、反現代的なもの、反中央的な心の磁場として、つまり故郷として言葉の場を保証してきたということでもある。それは、二首目に見えるような深い精神世界をひらきつつ、どこか抽象化されきらない澱のような場そのものを影のようにその核に抱えたものだった。また、三首目の歌に見えるように、そこでは具体的な場としての故郷と言葉の世界とは対等な拮抗する関係のうちにあることがわかる。故郷にありつつ故郷の強い求心力に抗う、その結果として心と言葉の磁場としての故郷は現れてきたと言えるだろう。伊藤が自らの存在を問う故郷は、いってみれば濃厚に実在する故郷の照り返しとしてあったのだ。すなわちそこでは故郷は、風景として輪郭を現わす必要がないほどにそこに確かにあったのだともいえる。しかし、その後の変遷の中で、故郷は静かに風景をともないその輪郭をあらわしてゆく。それは四首目から五首目にいたる動きのうちに、和解と言ってもいい心動きをともなっているようにもみえるだろう。この動きの中で故郷と故郷とは出逢い、融和してゆく。いつさいの詩嚢を捨てよとはまぶしい断念だろう。その断念によってはじめて浮かび上がってくる日向という土地のありのままの輝きは、伊藤にあらためて詩のありかを問うのだ。むろん実在の日向という土地はそうした葛藤にかかわらず何一つ変わらずそこにあるわけだが、言葉にとっての故郷はその時点で存在感をむしろ弱めたのではないだろうか。逆にみれば、故郷がその求心力を弱めたことが、故郷の輪郭を求めさせたとも考えられるのである。冒頭の一首はそうした流れの中で詠まれている。

 いつか帰るべき場所であったはずの故郷が、今や、中央や、都市や、旅などと対立する意味を持ちにくいということは、一般的な社会の流れとしてあるが、そうした背景とも重なりながら、伊藤にとっての故郷もその質を変えている。その中で、『海号の歌』の世界も否応なくその質を変えている。

 

 緑濃き曼珠沙華の葉に屈まりてどこにも往かぬ人も旅人

 

 禁忌なき社会に生きてたのしとぞ思へるは来な緑の森に

 

 「正しいことばかり行ふは正しいか」少年問ふに真向ひてゐつ

 

 一首目の旅人は、根拠としての故郷を失った今日の故郷の住人はそこにとどまりつつ旅人なのだと語る。居場所を失ったゆえに開ける濃い理念と思いによる世界。二首めから強く感じられるのは、居場所と呼べるところが、日向という土地ではなく緑の森というより普遍的なものに変わっているということであろう。来なという禁止によってあらためて、そしてかろうじて形作られる居場所がここにはあるのではないか。三首目に歌われるような現代の傷を負った少年少女の像は、かつて日向という土地の奥行きそのものとして歌われた人々にかわって多く歌われている。ここでは、現代という共時的な世界へ問いがひらかれ、それゆえに多くの新たな問いと共感の場となっている。しかし、同時に言葉がその故郷を失ってほどけてゆくような危うさも感じられる。

 いま、伊藤の韻文世界は、

 

 母の名は茜子の名は雲なりき丘を静かにくだる野生馬

 

 のような美しく言葉に降りて染みわたる世界と、普遍的な文脈への参加による共時的な広がりという二方向の葛藤のうちにあるといっていいだろう。そこには、普遍化にさらわれる言葉をどのようにあらたな故郷に引き留めるのかという短歌にとって切実な闘いが見えるように思う。

 

4. 哀しみという情緒への哀しみ小池光

 短歌にとって抒情とは何だろう。この問いに切実に多くの疑問を向けてきた作家として私は小池光を思う。

 

 ありふれし中年われは靴の紐ほどけしままに駅に来てをり

 

 サルヴァドールダリ死せりけり燦然とあるひは平凡に妻におくれて

 

 元日の朝にめざめてあはれあはれわがおもふことはきのふのつづき

 

 鳩の足ほのくれなゐにあゆみ来つさびしき夢のつづきのごとく

 

 『草の庭』については、その問題についてすでに別に述べた。※5ここでもういちど別の角度から読むとき浮かび上がってくるのは、小池がこうした一見木訥とした、そして非常に抑制された歌い方の裡に韻文としての短歌の抒情の最後のありかを求めているのではないのかということだ。それは、

 

 種を遺すこころのよわさゆきずりの雪ひとひらはのどぼとけ濡らす

 『バルサの翼』

 いちまいのガーゼのごとき風立ちてつつまれやすし傷待つ胸は

 

 といった初期に現れた世界とはあきらかに質を変えている。少年期の回想を含んで、青年の普遍的な哀しみとひとつの時代を通過した余韻が新しい抒情世界を造り上げていた『バルサの翼』の小池の世界は、重力に抗しつつ、あえかに、しなやかに空中を浮遊するバルサの機影ーーそれがあたかも、苦に満ちた此界を離れ、此界でも異界でもない不思議な空間にあそぶ一つのうらがなしい魂を連想させたのである。と高野公彦が語るような抒情世界を造り上げていた。それは、たとえば種をのこすこころのよわさに共鳴しつつ広がる世界への確かな想像力、あるいは、つつまれやすし傷待つ胸はの繊細な痛みが共有されるべき世界への信頼に裏打ちされつつ開けていった抒情世界であったとも言えよう。当然ここには青年期から中年期へという作家の内面的な変遷やそれぞれの時期にかかわる物語の質の違い、さらには言葉をめぐる社会状況が反映しているわけだが、それ以上にここから『草の庭』への距離には小池の短歌という叙情詩に対して抱えた危機感が次第に大きくなりながら滲んでいるように思う。

 例えば、一首目の歌にみえる自己像には、結ぶはしから気づかぬうちにほどけてゆく靴紐に託された戯画化された中年像がみえる。それは、それ以前の、あるいは以後の世代に対して聳えるようなメッセージをたたえた生き様を持たず、その輪郭も持たぬということが、むしろ現代の中年像を伝えている。二首目のダリの歌も、ダリという濃い個性、非凡な生が、妻に後れて死ぬというありふれた生の余白の哀感によってなだらかに誰の生にも流れ込んで平準化されるところにモチーフがある。三首目の歌にはさらにそうした輪郭の乏しい生、折り目のない生活の哀感は明らかだろう。そうした生の、さながら夢と現実の境目さえ不確実な平らかな風景に現れるのが、四首目の鳩の足の歩みだ。この鳩の赤い足は、どこまでも茫洋と昨日のつづきを生きる今日から明日へと歩いてゆくような哀感がある。ここには、総じて物語の陰影を喪失した世界が現れており、その恐ろしいほど平らな生活と生の有様は、好むと好まざるとにかかわらず今日の生を伝えていよう。物語のない世界、それは同時に、いわゆる短歌的抒情にもその根拠が失われつつある世界でもある。

 小池の抒情空間の大きな転回点を感じさせる一連として第二歌集『廃駅』の「生存について」を考えておかねばならないと思う。

 

 夜の淵のわが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる

 

 ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せにいつたであらう

 

 小池がここで直接に素材にしたのはナチズムであるが、「生存について」というタイトルが暗示するものは我々自身の日常の足下の暗渠であり、日常性というものがそもそも孕む異常であろう。ここで小池が見ようとしたのはナチズムの特殊なのではなくあくまでも私たち自身の生活と生存の意味だ。であらうを結句として二首目以降つづく五首からは、私という主語が遠ざけられている。私が否応なく引き寄せ、居場所とする主情を遠ざけ、ナチズムを経験した後の日常が、どのような意味をもつのかが問われているのである。そこには日本の戦争犯罪への問いも無言のうちに重ねられているかもしれない。人類という単位で経験した罪科を、異国の出来事として、過去の出来事として閉じてゆくことの虚偽を問うていると言ってもいい。こうしたテーマに例えば哀しという情緒を持ち込めばそれはすべてを飲み込んで不問にし、見えなくする求心力の強い言葉として働きがちだ。哀しで抱えきれず、回収され得ないところに今日の生存はあるのではないか。そうであれば、私が引き寄せる情緒、私の言葉が抱える抒情とは何なのか。ここから小池は短歌の抒情への疑問と問いをさらに深くしていったように思う。

 こうした小池の歩みは、むろん川端が語ったような古き良き韻文世界を拠り所にしていない。むしろそこに真っ向から対立するといってもいい。それは、その発想において日本人のという主語、言葉と情緒の共同体をあらかじめ拒否していることによってもいる。ここにあらわれているのはあるいは人類のという主語であるといってもいいだろう。それによって、情緒による許しのまほろばの外に現代の韻文のありかを求めたとも言えるだろう。しかし、そうした抒情の主体を疑うとき、叙情詩である短歌はどこに言葉の根拠、生まれる場を求めればいいのか、小池の歩みは常にこのあらたな問いと共にあったのではないのか。『草の庭』にこんな歌がある。

 

 その市民レニングラードの名を忌避するときくときつひにこころは空し

 

 言うまでもなくロシアの崩壊後が歌われているわけだが、ドラマチックな歴史の変わり目に対する感慨というものはない。ここには、むしろ、ひとつが崩れ去り街の名を改めるような情緒にたいしてあらかじめ深い諦念が語られている。サンクトペテルブルクはまた民衆の圧殺の上に聳えしにあらずやと続けて歌われるように、あらためた名もかつて抑圧と圧制の象徴だったのではないのか、と。感じる前に見る前にわかってしまうこの感覚、この感覚から言葉を立ち上げてゆくことの困難に小池の現在があるように見える。その知的な理解は人間性と現代の深みに届きながら、しかし同時に言葉や情緒にも圧力をもたらしているようにもみえる。小池が再構築した現代の韻文的な抒情世界、短歌の言語空間は抒情というものの虚偽を捨象した世界だとも言える。しかし、それは、すべてのものを矛盾の均衡のうちに眺め続ける苦しさと、物や事柄をそこにあるままに記憶に変えるときに生まれる哀感によって、どこか自らをあえて小さくしていないか。『草の庭』がこうした歌を伴いながらしかし全体としてデテールへの慈しみや出来事の狭間のようなナンセンスに心をほどき傾けているように見えるのは、そこに抒情のまほろばが去ったのちの心の新たなそして最後の居場所を追うからでもある。抒情に対する疑いはまた、言葉に対する誠実さでもある小池の言葉のありかは例えば次のような十二首によって構成された詩の一部にもよく見える。※

 

 てのひらの廃墟のうへに

 草の実の

 からくれなゐのいろを

 こぼすも

 

 彼自身が再び造りだそうとする現代の韻文のありかは、かつての韻文世界を廃墟としつつ哀しむというなにか落ち着いた自画像をもってあらわれている。そこにむしろ危うさはないだろうか。

 

5. 結びにかえて

 わたしが、川端の講演をたどりながら感じた痛ましさは、ひとつには、言葉をそこから未来へ導こうとする、あるいは自らが置かれた位置と世界を理解しようという意志をあらかじめ欠いていることによる。日本語の根本のことはあなたたちにはわからない、と世界という聴衆に向けて語る川端は、同時に理解するということそのものに対して自他に断念を強いている。短歌が韻文である以上どこかに翻訳不可能であるようなそれゆえに魅力であるようなエッセンシャルな言葉への志向をもつことは確かだ。しかし、そうした志向を日本語の本質、などと言い換えることでこの問いを閉じてしまいたくない。韻文の世界は私たちの社会や生とともに常に激しく変わりつつあり、そこには常に新しい日本語の本質が生まれているのではないかと思うからだ。そういう意味でこれまでに見てきた各作家のそれぞれの闘いは韻文世界にとってとても重要なのだ。

 私がここであえて川端や大江の、しかもこのような場面でのスピーチから語り始めたのは、現代短歌が多様に多岐にその価値観や評価の軸を広げ増やしているなかで、個々の作品の価値や方向や読みそのものが、選びや好みとしてしか語ることのできないような、共通の語りの場を喪失した状況を背景としている。一見豊かに見える短歌の内実は、しかし、言葉の多様さとテーマの複雑さのなかで大きな曲がり角を迎えつつあるだろう。この中で短歌は自らの根拠をどこに見いだすかを苦闘している。しかし、そうした韻文としての求心力を求める動きが、あらたに多様な閉塞を生むという危険と隣り合わせでないとは言えないだろう。

 言葉と生活の文脈は、川端のような、語るべきことと言葉とが幸福な一致を夢想できた時代にいない。そのなかで現代短歌は、語るべきこととそれを語る言葉との剥離になやみつつその両方に足をかけて苦闘している。そうした韻文が背負っている役割はけして小さなものではないと思う。世界という聴衆に向かって、というのはむろん夢想にすぎないが、しかし、そうしたフィールドを短歌の現在を映す鏡として仮想することは、言葉の置かれた地点を手探りする上でまったく意味のないことではない。それはごく素朴に、私たちは誰と共に生き、誰に向かって語りかけるのかという想像力の問題として。短歌という韻文が、もし同じ韻文世界に生きる人間だけを相手に言葉を磨き上げてゆくことに腐心するなら、それは文学としてより以前に生活として貧しい。今日の韻文は、韻文世界の調和を乱し、その根拠を危うくするようなより大きな枠組みとの摩擦と常にともにあることで逆にリアリティーを増し、存在感を得ているのではないか。

 韻文は世界文学になれるのか。なれる、とも言えないし、なれない、とも言いたくない。どちらの結論にもこもる断念が私をなりたい、という切実な願望の地点に引き留める。そして、歌が、日本語と日本人の空間に向けてだけ書かれるのでなく、日本語というひとつの特殊の内側から、世界の無数の言語がそうであるような特殊に向けて発する、普遍への意志を含んだメッセージであれたらと願う。日本語という個別性が、世界の無数の言葉がそうであるような個別性を想像しうる出発点になることで韻文は今日的な存在感を得ると思うからだ。