伊藤一彦の抒情性は

時代の闇と切り結んでいるか

『短歌朝日』98年11.12月号

 

伊藤一彦はそもそも私達が時代と呼び現代と呼ぶ<東京時間>に異を唱え続けてきた一人である。東京に背を向け、故郷宮崎に帰郷したところから彼の世界が始まったというエピソードは、彼を東京から切り離しはしない。むしろ逆説的に伊藤が東京の、つまりは時代の反語的語り手として出発したことを明かしている。

 

 啄木をころしし東京いまもなほヘリオトロープの花よりくらき火の橘

 

 伊藤がこう歌ったとき、これはメッセージとして一見古かったのではなかったか。東京はこうした小暗いつぶやきを押しつぶし、巻き込み、地方の自立性などあざ笑いながらすべてを東京とすべく急速に肥大している最中だったであろうから。昭和五十年代の感触を資料に辿ってみるとそういう気がする。一地方人としての啄木の七転八倒、貧困や病はすでにあまりにも遠く、比喩としても啄木を死に追いやった闇が東京に育ち続けていることなどあらためて振り返ることさえない、そんな時代であったろうと思う。

 いま、今世紀の終わりの未来の見えにくい地点からもういちどこの歌を眺めてみると、遠い啄木の死が再び浮かび上がってくる。暗さを芯とすることで東京は輪郭を与えられていた、そんな気がする。ヘリオトロープの華やかさとその名の響きのかすかな翳りに導かれたこのメッセージは、東京への根深く人間的な呪詛を含んで、むしろはっとするほど古く、表面的なメッセージを越えて反東京的な情緒と東京の両方を生かす力を秘めていた。

 

  拭うてもなお濡れをもつししむらぞわが前の世を思いていたる瞑鳥記

 

 青梅を籠さげて待つおさなごよわが亡きのちに汝は死すべき月語抄

 

 妻とゐて妻恋ふるこころをぐらしや雨しぶき降るみなづきの夜火の橘

 

 熊蝉のわしわしと啼く命懸けすさまじきぬばたまが夜は待つ青の風土記

 

 伊藤は自らの周囲に独特の時間、空間を探り当てつつ、そこからこみ上げる不可知の情緒を不可知のまま定着してゆく。第一歌集である瞑鳥記において、およそ青年の肉体らしくない漠然と湧く湿りを感じとる感性は、すでに、自らを置く時空と肉体がわかちがたく結びついていることを告白している。<おさなご>や<妻>、さらには隣人や老人、生徒、伊藤は周囲の身近な人間に呼びかけ、情と運命との複雑にからみ合った関係を炙りだすことを一貫した主題としてもいる。熊蝉の啼きのすさまじさとそれをつつむ闇とは、菌糸のように伊藤の自我の苦しみの広がってゆく闇であり、それらすべては反東京的な空間としてひとかたまりの量感を持つ。

 伊藤の故郷は東京が肥大すればするほど嚢のように奥行きを深め、闇を蓄えていったといえよう。時代の闇が計測不能であるならば、自らの闇をもって対峙するしかない。東京が突出するなら南はくぼみ、東京が人を殺すなら南は人を愛惜しよう。まさに時代の反語として伊藤は東京を退るほどに東京を描いたのであり、時代から退くほどに時代のエッセンスを受けとめたといえるのではないか。つまり、伊藤にとっては反時代のスタイルが時代と渉り合うスタイルであったと言える。またそこには、巨大な歌垣としての東京に対する南の歌垣の深い呪詛がしまわれていることも見逃してはならないだろう。

 いま、東京の、そして時代の闇はラフレシアほどに肥大し輪郭を失いつつあるかのようだ。人を殺すことなく、しかし決して生かすことのない闇がどこまでも広がっている感触がある。ある意味では<東京>は死につつあるのではないか。その推移は伊藤にも確実に変化をもたらしている。

 

 緑濃き曼珠沙華の葉に屈まりてどこにも往かぬ人も旅人海号の歌

 

 大合唱のかなかなどもは知らざらむふるさとに棲むわれの望郷

 

 ここでは、故郷は求心的な力をほどき、伊藤を終の意味での旅人にしている。そのこと自体は故郷と呼ぶ場所があらかじめかかえる運命のような性質だろう。しかしそれが、東京の暴力の見えがたさと無関係であるとは思えない。東京という時代の代名詞が輪郭をうしないつつあることで、伊藤の故郷もその輪郭をほどき、ひとしなみに<現代>という語りの場へと広がり投げ出されてゆくのは、おそらく逃れようのないことなのだ。

 ただ、そのとき、伊藤がその抒情で開いてきた歌垣が茫漠とした現代社会一般に吸収されようとしていることに危惧を持つ。

 

 「正しいことばかり行ふは正しいか」少年問ふに真向かひてゐつ

 

 十通り以上の死に方語り終へ少女はおほきためいきつきぬ

 

 ここでは伊藤は、現代の少年少女の心の闇のはかりがたさをあらかじめ真摯な教師として承知している。そのことが歌を分かりやすくし、また広く共感も呼んだ。しかし、そうした理解の姿勢は現代のマスコミレベルでの学校問題の水位と並んでしまっていないだろうか。伊藤の中で文学的姿勢としてせりあがってきた呪詛としての歌垣への願望が、表層的なヒューマニズムと共鳴してしまうところに風通しのよさが生まれてしまっている。伊藤にはこれほどものわかりよく、通り一遍の現代解釈に共鳴してほしくないと思う。初期において学園紛争に距離を置いたように、むしろそうした理解そのものを哀れみ糾弾する闇を描いて欲しいと願うのは無い物ねだりだろうか。誰も彼もが物わかりよく誠実そうに、現代の痛みを遠巻きにしていること、その誠実の薄さへの悪意を隠さないで欲しいと思うのだ。

 私にとってむしろ力として感じられるのは、

 

 歩むさへ容易ならざるおいひとのわかもの憎むわかものゆゑに

 

のような感情のリアリティーであり、また、

 

 水の辺の老いし合歓木見る夢に仏あらはれとほざかりたり

 

のような、あらゆる苦しいバランスの中でふと現れた許しである。愛でありながら呪詛であり、呪詛でありながら愛である伊藤の抒情は、歌垣の後のこの漠然とした時代にもっと醜く突出してほしい。走り疲れた時代が伊藤の懐の闇に寄り添いたがっているのが現在なのであって、伊藤の方から時代にすり寄るのはおかしい。