「短歌往来」98.2
(一部書き換え『未知の言葉であるために』所収)
中城が『乳房喪失』でデビューしたのは昭和二十九年四月であるが、この年三国玲子の処女歌集『空を指す枝』と、葛原妙子の第二歌集『飛行』が相次いで刊行されている。。中城は、その活動期間があまりにも短く、文学史的に鮮やかに対比して語れるようないわゆるライバル、と言える歌人を彼女自身が意識していたかどうかはよくわからない。しかし、この年の偶然の三国、葛原との接点は、中城がその出発に当たって立っていた地点、背負っていたものを明らかにするうえで象徴的にもおもえる。中城は、彼女自身の華やかな短い生涯の像にかき消されがちな素の部分に、一つの時代の一人の女性として他の女性歌人と共通の何かを背負っていたはずだ。現在にいたるまで、中城は後続の女性歌人に多くの影響を与えたと言われながら、しかし、具体的にどのような道を開いたのかについての言及は意外に乏しい印象がある。他でもなく、女性の側からの方法へのアプローチが少ないのは、方法として吸収され尽くしたということと同時に、なにかそれと意識しないほどにふかく女性の内部に食い込んだ主題と方法とを中城と共有し抱えていたためではないかとも思われるのだ。中城はどこから生まれ、どこへ行こうとしていたのだろうか、同時代の女性たちの群像のなかに中城を一度返して眺めてみたいと思う。
この三国との接点については、柳宣宏の指摘に負うところが大きい。柳は、「昨日の意味、今日の価値」という文章のなかで、歌壇は、三国を暖かく迎え、中城こきおろした。ーーしかし、歌壇の評価とは別に、三国には、中城のことがよくわかっていたのではないか、適切な理解を当時からしていたのではないか、そういう思いこみがぼくにはあった。(『短歌』平成四年十月号)と述べている。また、同時に、三国玲子は、モラルに抵触することに罪の意識を感じ、モラルの内側に生きる自己抑制型の女性像を創出した。中城は、モラルを踏み破って自我を主張する、無頼型の女性像を創出した。しかし、戦後の歌壇は、自己抑制型の女性像を清潔と評価し、無頼型をその反対のものとおとしめたのである。それは既存のモラルに従順であるかどうかによって作品を評価したことにほかならないと二人の登場を分析している。三国が中城をどのように理解していたのかは明らかにされないが、それはここでは問題ではない。柳が言いたかったことは、この二人の対照的に見える歌人が、モラルという枠を挟んでその内と外で向き合っていたのではないかということであり、そのモラルに作品評価が振り回されたのではないかという危惧だ。それゆえ、三国はたとえ否定的にであろうと中城を理解していたのではないかと柳は憶測する。
いま、あらためて二人の歌を比較してみるとこの構図は実に鮮やかに当時の女性の現場を明かしている。
触れがたく白く咲くとも花なればわれの不浄を卑めはせず
中城ふみ子
はつはつに芽吹くもありてしろがねに光る枝枝暁の空を指す
三国玲子
倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て
中城
鱗雲の下に芽を吹く欅が見ゆわが憧るるは廚の窓の外
三国
中城は、花の白さに強いあこがれと距離感をみている。自らの不浄を照らし出しているのは花であるが、しかしだからといってそれは自分を卑しめはしない。しかし現実の社会はと、中城が見ているのは花のかなたにある自分に相対する社会の質なのだ。考えてみれば、不浄などという言葉は歌にとってどうも厳しすぎ浮いてさえいる。しかし、中城は、このことさらな言葉を持ち込むことによって、自らを位置づけると同時に相対するモラルの質をいやというほど明らかにしたと言えるだろう。これに対して三国は初々しい生命感とともにいま、自らの置かれている場を突き抜ける意志の象徴として若い春の枝先の芽を見ている。それは内側から突き上げ、できればそこを突き抜けたい力への願望といってもいいのではないか。二組めの歌には、女としての日常をその内外から見つめる二人の位置はより鮮やかだろう。中城は蒟蒻の頼りない柔らかさ、温もりに、妻であるということの一面を重ねている。これは、言うまでもなく妻という制度の外側に立ったゆえに見えたその位置のはかなさなのであり、自らのかつてを自らが哀れがり眺める視線である。また三国は、鮮やかな構図のもとに自らの今の位置と未来への希望を描く。生くる限りは吾に続かむ煩ひと皿運びゆく廚の水になどを合わせ読むとき、そうした思いの生まれた生活の質はより明らかだろう。三国と中城は、その立場こそ異なるものの、ある共通の制度の枠組みをその内外からみつめ、そこに新たに自らの生を刻印しようとしていたのである。
こうして読んでくるとき、柳がモラルと呼んだものは、もうすこしその性格を明らかにできるものになってくる。それは、戦後という時代を背景にして、歴史的な制度と新しい制度とが拮抗していた現場に、女たちが自らの道を模索しようとしてぶつかった壁のようなものである。そしてその結果として、妻であること、母であること、恋の現場、あらゆる角度をもつ女という制度とも名付けられるものが様々な立場から明らかにされていった道程ではなかったか。中城に対する賛否は、まさにこの制度への賛否を含んでいやがうえにもかしましかったとも言える。
ところで、中城の「冬の花火ーある乳癌患者のうた」が「短歌研究」新人賞入選作として掲載され、反響を呼んだとき、五島美代子、葛原妙子、阿部静枝らが中城に激励の手紙を寄せたという。彼女ら、当時気鋭の女性歌人たちは、たんに死に瀕した若い歌人に同情したのだったろうか。このエピソードが私に投げかけるのは、乳癌の一語の重みである。もし、他の部位の癌であったなら中城はこれほどの注目を得ていなかったかもしれない。乳癌すなわち、失われた乳房が物語るものは、健常な乳房以上に濃厚な乳房の存在なのであり、その象徴的な意味に、方法も方向も異なる女たちが自らの思いを賭けたのだと言えないだろうか。
そのひとり葛原妙子は「再び女人の歌を閉息するもの」のなかで、「乳房喪失」は、一口に言ふなら、混迷の中の人間の生き方の模索、それを象徴するものと云へよう。一人のエゴイスチックな女性の、鮮烈な生き方をとほして、それは如実に戦後社会を反映している作品であるとし、さらに、自身の内部の矛盾を曝すことなく、社会の矛盾を取り出すことは、彼女自身の立場としては少くとも負目であったに違ひないとも述べる。自身の内部の矛盾を曝すことによって社会の矛盾を取り出す、この方法論において葛原と中城は深く相通づるものを持っている。詳しく比較していけば、二人はお互いの作品をよく読み合っていたのではないかと思われるところがいくつもある。
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子を持てりけり
葛原妙子
剪毛されし羊らわれの淋しさの深みに一匹づつ降りてくる
中城ふみ子
ビニールの上にひた置く刃物らの光らむとして冬はするどし
葛原
子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり
中城
一組めの歌はいずれも私の現状を出発点にした幻想の光景が似ている。葛原は、力あふれる馬の奔走の幻想のゆえに、取り残される自らの位置、さらに自らにとどまらない母という存在の置かれてきた運命的な位置に遭遇することになる。中城は、逆に自らの内側に幻想の羊を呼び寄せることでみずからの淋しさの質とその限りない深さを見ている。二組めは、物の質感や位置に見入ってゆく視線が印象的だ。この視線にはそもそも修辞がふくまれており、物の見方それ自体が翻って自らを客観する視線となっている。ある意味では厳しい自己観察なのであり、そこから自らが囲う生や母性が暴かれてゆくのだともいえよう。これらは、いずれも幻想という修辞の力によってはじめて明らかになった存在論とも言えるものであり、それが女であるという現実を露にし、そこに食い込んでゆく力を生んでいる。塚本邦雄は「魔女不在」のなかで作者が死をかけた効果は、むしろその斬新な修辞学おいて顕著であらうと、中城の物語をメロドラマと厳しく区別したが、こうした修辞がひらいた自己客観化は、その結果として女という制度へ及び、根を張っていたとも言えるのだ。
恋愛や、家族やそうした一見些末に見える身辺を歌うことが、実は意外に社会的なことなのではないか、というアイデアを中城をテキストに、七、八年ほど前に口にしたことがある。これは、清水昶の「永遠なる官能」という文章の、中城ふみ子の作品には不思議に「社会」の反映としての歌がない。それは、ある意味で「内部のこゑ」に忠実だったためだろうが、ーー彼女のそれは、いわば受け身のそれであり、客観的に世間を眺めるごく普通の日本人のそれでしかなかったようだという部分に異議を唱えたつもりであった。その後時間を経てみてこの思いはいよいよ濃く、いまは、実はそうした形でしか本質的に社会は歌えないのではないか、とさえ思う。中城の人生自体はそれがどれほど劇的ではあっても、おそらくありふれた女の通俗の生の一つに過ぎまい。しかし、彼女が拓いた道筋は、その生の七転八倒のうちに外側から女という制度を浮き彫りにしたということだろう。また、そこで生まれた修辞は、日常の外側から日常を描き、自分に染みた内面の社会への旅を可能にしたのではなかったか。女をめぐる制度は、もう直接に抑圧とはならなくなったのが現在であるが、目に見えない巨大な抑圧のシステムの痕跡をささやかな日常の場に見、刻みつける方法は、性を越えて共有され財産となっていると言えるだろう。自らの内なる社会の発見の方法として。