茂吉の帰国

— 火焔の香する —

「短歌」98.2

 

 

 かへりこし家にあかつきのちやぶ臺に火焔の香する澤庵を食む

 『ともしび』

 

 大正十四年一月、茂吉はほぼ三年ぶりでヨーロッパから帰ってくる。この歌は周知のように、火災によって半焼となった青山脳病院の一隅の自宅に落ちついたときのものである。茂吉には好奇心や開放感、また郷愁に彩られたヨーロッパでの歌群があるが、それらを通り過ぎたのち、実はこの歌がもっとも切実な旅行詠となり得ているのではないかと私は思う。ちやぶ臺にうつむいている茂吉には、見聞したヨーッロッパの洗練された空気がまとわりついていたであろう。焼け残った澤庵などはもっともその対局にあるはずのものだ。こののち担うべき現実の重さと同時に、この澤庵には当時の先進国の異文化に灼かれた自文化への悔しい自覚がこもっているように思えてならない。火の香とは、まさにそうとでも形容するほかない文化と文化、異国と自国、旅と日常の狭間にたちのぼる見えない火の香りでもあったのではなかろうか。茂吉はこの悔しくもわびしい香の物をかみしめることによってはじめて旅を終え、また旅の陰影を確かなものにしたのだと思う。

 旅行詠にとって大切になるのはあるいはこのような翳りの部分、そこに自らの在処が宿るような襞の部分なのだと思う。旅の醍醐味はそこに見えた自分の姿の変化や輪郭なのであり、旅に描かれた風景にはどうしようもなく自分のありようや場合によっては歴史的な位置が反映されるのではないか。

 

 あめつちの大きしづけさやこの真昼珊瑚礁干潟に光足らひつ

  中島敦

 

 中島敦がパラオへわたったのは昭和十六年のことである。敦の日記の中に散見される短歌は、写実の骨法をものにしつつ南方の風景を過不足なく描いていると言えるだろう。しかし、それらは当時の南方政策、つまりは侵略とセットになって現れる南国パラダイスのイメージの範囲だとも言える。敦の官吏としての仕事がこの異国の島々を教育によって日本化してゆくことであったことは、そうした印象をより濃厚にしているかもしれない。ここには、そこにあるはずの他者としての南方は不在のまま、自然詠のなかに限りなく異境を取り込んでゆく短歌の性質の一側面が見えかくれしている。彼のエッセイに見えるような危ういまでの自分への問いは、短歌には見えない。短歌は、つまりそういうことが自然にできうる形式なのだということを、危ぶみながら再認するのである。

 旅行詠が、あらゆる異境を短歌の形式に翻訳することでないとすれば、自分の鏡として、他者と呼べる何かを発見したとき、はじめて歌にとっての何かが生まれるのであろう。

 

 なみよろふ低山の木々もみぢつつ韓国や炎を発しをれり吾をみて

 『南島』馬場あき子

 秋の草名を知らざれど手に折りて韓の陽眩しわづか目を伏す

 

 馬場の韓国詠には、歴史的な自己への自覚がくっきりとした輪郭として現れている。韓国という歴史的な特別な他者への礼節としてあらわれる礼の所作、目を伏すは翻って自己が背負う時間と文化への自覚ともなっているだろう。ここには自責と、しかしそこから謙虚に立ち上がる自負の拮抗が緊張を生み、旅行詠の鮮烈な切り口となっている。ここは自己の歴史や文化への帰属が明確にならざるをえない場面なのである。

 一方で現在、自分の文化への帰属意識の揺らぎそのものがテーマとして現れる場面も少なくない。自分のアイデンティティーへの問いとともに社会や未来を人類規模で共有していることへの気づきが、異国や異文化との出会いとなる場面である。しかし、いずれにせよそこには自分を灼く見えない火のようなものが立ち上っているはずなのだと思う。旅行詠の今日的な意味はその火の香りを嗅ぐことにほかならないのではないか。