『かりん』2005年2月号
茂吉はいつ老いたのか、そしてなぜ老いたのか、この問題を考えることは、短歌における近代の達成と挫折を考えることと重なる。茂吉がいたからこそ短歌の近代は実を結び、また茂吉が早々に老いることによって近代の限界は早々に訪れた。その影響は現代にも少なからず及んでいよう。具体的には『赤光』、『あらたま』という初期歌集に蓄えてきたものを吐き出した後、『つゆじも』において茂吉は何かを失ったように見える。茂吉の初期歌集を読むとき、一度は感じるこの感触は何を意味するのだろう。
福田恒在はこのことについて「歌詠みに与へたき書」の中で次のように語っている。
『茂吉はたしかに新しい日本人を生みいだす「近代日本の『うらわかきかなしき力』」でありました。それだけでも大変なことであります。が、茂吉の存在理由はーー酷薄なやうですがーーそれだけに尽きてをります。いかに若き母であったとしても、母はあくまで過去のひとであり、年ふれば老いるのであります。もしこの若き母の「かなしき力」を保持しつヾけようとつとめたひとを求めれば、ぼくは茂吉よりもむしろ迢空をあげなければいけないとおもひます。茂吉は「赤光」「あらたま」以後、急速に老いこんでいったのではありますまいか。端的にいへばかれは道をあやまったといへないでせうか』(昭和二十四年「短歌研究」九月号)
この論は、いわゆる第二芸術論の流れの中にあって、頑迷な写生主義への信奉を批判する目的で書かれている。茂吉のエピゴーネン達が、「若き母」であった茂吉よりは「老い」た茂吉を盾として、「性能がよからうがわるからうが、三十一文字というシャッターひとつで、とにかくものはうつるといふ手軽さ」を利用し写生を身上としたことを批判する。現在このような素朴な写生主義を批判することに批評としての発展的な意味は無いし、全体の趣旨は第二芸術論の流れに乗って書かれており、時代の色を濃く帯びている事は否めない。しかしここで問題にしたいのは、茂吉が『赤光』、『あらたま』以後「急速に老いこんだ」という言い方である。これ以上具体的に書かれているわけではないのだが、この言い方には直観的に納得できるものがある。同様に、この初期二歌集が、近代を生んだ「うら若きかなしき力」であったという言い方にも直感に訴えるものある。
福田はここで芥川龍之介が絶賛したという『あらたま』の「一本道」の連作から三首を掲げている。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
かがやけるひとすぢの道遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
芥川はこの歌に、ゴッホの絵に通じる「沈痛なる風景」を感じ、自らの精神風景と重ねて切実な共感を寄せたことが書かれている。芥川が茂吉を絶賛した背景については芥川自身が茂吉のような強力な「われ」を打ち立てることが出来なかったという創作上の悩みや、その生い立ちから抱え持っていた不安も影響しているだろう。そうした親近感を引き寄せながら、ともあれ、『あらたま』のこの歌は「新しい日本人を生みいだす近代日本の『うらわかきかなしき力』」を感じさせるものを秘めていると感じられていた。
あらためてこの一連を読んでみると、ここには事件も何もない。自らと目の前に延びている一本の道との対話である。先の三首に続けて次のような歌が続く。
はるばると一すぢのみち見はるかす我は女犯をおもはざりけり
我はこころ極まりて来し日に照りて一筋みちのとほるは何ぞも
茂吉はこの一本道を全力で問い、自らの内面を映す鏡にしている。一本の道が「たまきはるわが命」を投影されて生き物のようにのたうち、「命をおとしかね」ないほど生命を露わにする。「女犯をおもはざりけり」と語ることにより「女犯」を思わずにはいられぬ情動が映し出され、また明るい日の中にある「一筋みち」が混迷し混沌として立ち往生する自らをいっそう際だたせる。これらの歌は前後関係や背景を越えて茂吉の自我の突出した強さを伝え、命の哀しみを詠いながら、その実「私」の命の勝利を宣言しているのだ。茂吉の歌に現れたこの強力な「私」は、一本道と私のみ、この簡潔な構図において表現される。「私」は風景を支配し、あらゆる外界との関係の束縛を逃れている。
ふり灑ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き?を追ひつめにけり
わが妻に觸らむとせし生きものの彼のいのちの死せざらめやも
またこれら『あらたま』の特徴の強く滲む歌に、「私」は不条理そのものとなって突っ立つ。罪もない哀れなコオロギを追いつめる鬱屈も、読者には原因不明のカオスである。妻に触れる「生きもの」はすべて許せぬという極端な怒りの出所やその理由は不明なまま、読者はエネルギーの充満したこの「私」にさまざまな思いを託して読むのだ。この突出する「私」は、不条理の象徴であり、存在の哀しみを裸形で表すが、しかしあまりに裸形であるために他者や世界との関係を問うことを知らぬ「私」なのである。
このように突出する濃い「私」が、自我のありようを問い求めながらその方法に行き惑う近代文学の文脈の中で讃えられたとしても不思議はない。当然のなりゆきと言えるかも知れない。しかし、私はむしろこの「私」の成功の頂点において実は茂吉の「老い」は兆していると読むべきではないか、という気がしている。そもそもこのように夾雑物を排して高度に純化された「私」がこののちどのように外界との関係を結び直すというのだろう。その道筋の難しさは、『つゆじも』に現れた「私」が代弁している。
とほく来てひとり寂しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り
この病瘉えしめたまへ朝日子の光よ赤く照らす光よ
孤獨なるもののごとくに目のまへの日に照らされし砂に蠅居り
あららぎのくれなゐの實を食むときはちちはは戀し信濃路にして
長崎赴任時代の一首目。決して心寂しい異境での暮らしが詠まれる。塚本邦雄は「だが例によつて短歌形式はこの戯言の類を救済する。茂吉の私的記録を離れて、一人の孤愁、羈旅の心にも似た侘しさをひめやかに読者に伝へる」(『茂吉秀歌』)と揶揄しているが、「とほく来て」、「ひとり寂しむ」、短歌の常套句とさえ言えるフレーズを駆使したこの歌の「私」はじつにほっそりとしている。むろん寂しさを詠んだ歌だから当然であろうが、心情のみならず、ものを見、感じ、世界を受け入れ、押し返す基盤となる「私」の動きが単調なのだ。それは二首目も同様である。病を得た私と朝日、この簡素な構図は「一本道」の連作の時と変わりないが、この歌は明らかに緊張感を欠き、朝日に向かって祈る一病人の呻吟以上ではない。三首目の蠅の姿には「孤獨」が投影され、鬱々とした物思いの滲む歌となっている。しかし同時にこの蠅との関係は孤独を抱えた「私」とそれを投影される対象という関係において寂しく安定した関係を結んでいる。
そして四首目の「ちちはは戀し」において「私」はある意味で世界との関係の結び方を取り決めたようにさえ見える。旅の途次、ふと口にしたあららぎの実はその感官に染み通って理屈なく父母を思い出させるものだったのだろう。父母恋いのような普遍的な感情は、読者に共感の訴えかけ染み広がってゆく。この場合の「私」は突出するのではなく、限りなく謙虚な位置にある。そしてまた最も安全な位置にあるとも言える。『つゆじも』はその後記に、火事によって原稿が消失し、既発表原稿や火災を免れたノートを集めて作られた歌集であることが書かれている。茂吉自身が「随分つまらぬ歌まで収録」したと語る。長崎赴任やドイツへの留学など忙しく茂吉の身辺が移っており、『赤光』や『あらたま』のような濃度がなく凝縮された迫力に乏しいのは否めない。しかし、それより気になるのは『つゆじも』以降の「私」が、奇妙に謙虚であり、同時に安全で安定した世界との関係が成立している感触だ。この感触を福田は「老い」と呼んだ。
「一本道」の連作において突出した自我は、道のほかになにも見ぬほどに孤独である。今一度この一連を味わってみると、道と「私」とは一体であり孤独そのものの姿をしている。『あらたま』は、自我の輪郭が確認がされるのと引き替えに他者の影が消え失せている世界なのだ。他者とのあらゆる関係性を捨象したとき得られた「私」は、その純粋性において勝利し、他者との関係において敗北している。『あらたま』において突出した「私」は、純粋であり裸形であるゆえに他の追随を許さぬほどに成功した。しかしこの「私」こそは世界との関係を問うことを知らぬ「私」でもあった。強大な時代の力に対してそれが何なのかを問うことを知らぬ者は、やがてひたすら謙虚になるほかない。その道筋は運命のように『あらたま』の成功の陰に付き添っている。『あらたま』ののち、『つゆじも』において茂吉が「老いた」とするならば、それはすでに『あらたま』において準備されていたというべきであろう。
では一体どこに「うらわかきかなしき力」を認めればいいのだろうか。私は『赤光』まで遡るべきではないかと思っている。「一本道」の連作が世界との関係を捨象して自我を確認する一連とするなら、例えば『赤光』を象徴する「黄涙餘録」の一連は世界との関係を切り結ぼうとするところに刻まれた自我であると言えよう。
自殺せし狂者の棺のうしろより眩暈して行けり道に入日あかく
陸橋にさしかかるとき兵來れば棺はしまし地に置かれぬ
土のうへに赤楝蛇遊ばずなりにけり入る日あかあかと草はらに見ゆ
歩兵隊代々木のはらに群れゐしが狂人のひつぎひとつ行くなり
火葬場に細みづ白くにごり來も向うにひとが米を磨ぎたれば
あまりにも高名なこの一連をあらためて読んでみると、さながら映画のようにいくつものアングルが用意されていることに気づく。「私」の位置は明確であり、この寂しい葬列の置かれた位置、またそれを取り巻く社会の空気までが描き込まれている。一首目、棺の後ろを歩く「私」は、自らの患者の自死に打ちのめされている。しかし同時に世界と「私」がどのように関わりどのように位置しているかを理解してもいる。字余りによって描かれた結句の風景は心情そのものでり、同時にこの場面の全体を伝える。二首目では、「棺」と「兵」との関係が冷静に観察されている。「地」に直に置かれることになった棺と兵隊との関係は、そのまま社会の縮図としてやるせない時代を反映し批評していよう。そして四首目の遠景には、カメラをぐっと引いた全体が映し出される。またこの一連に現れるデテールも重要な役割を担っている。「赤楝蛇」は象徴的な意味を担い、「私」の化身として配置される。また最後の歌には日常を失った視野に流れ込んでくる他者の生活の証しとしての米のとぎ汁が描かれる。このようなデテールは「私」を巧みに客観化する働きをしていよう。つまり、この一連は全体として「私」の哀しみのみではなく、その哀しみと因ってくる世界との関係を描こうとしているのだ。ここでは茂吉は世界に対して異議申し立てをし、その関係の軋みから近代という時代を生きる一個の自我を描こうとしている。
このような「私」は、茂吉自身「わが命芝居に似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも(『赤光』)」と詠むように、芝居がかった演出を伴うものだったし、そうした演出無しには描けないものでもあった。『つゆじも』以降の茂吉はこの芝居気に象徴されるような多角的な表現や自己の客観化を自らに禁じた。その時「私」は「私」を取り巻く世界を失い、他者との関係を切り結ぼうとする意欲を喪失したようにも見える。このような茂吉の「老い」は短歌の「老い」ともなり、永い戦争の時代に恭順していったのだ。今、もし福田に倣ってどこで道を誤ったのか、と問うならば、最も輝かしい『赤光』から『あらたま』への展開にあると答えるべきだろう。それは日本近代の最も豊かな実りそのものであったけれども。