茂吉の女

「かりん」02.1

 

 茂吉の長崎滞在中のエッセイ、「長崎追憶」のなかに、奇妙な部分がある。茂吉のエッセイはどれも不可思議な情動や好奇心を抱えていて面白いのだが、この文章はまちがいなく茂吉の不可解さを代表する一つだろう。茂吉は長崎での一人暮らしに不自由し、下女として娘を雇い入れる。娘は隠れ切支丹の末裔であり、日曜ごとに天主堂に通う。だが、その行動に不可解なところのあるのを怪しんだ茂吉は娘の行李を開いてたくさんの手紙を見つける。

 「私は時には胸を動悸させながらそれらの文句をひろい読みした。「デウスさまの、みめぐみにより・・・」というような文句で、甚だあまい恋愛成就をしたのであった。「なんのあれは三菱の職工ですたい」などと事務長がいったのを覚えている。私はそれらの手紙の文句を幾つか写し取ってしまって置いたのが、大正十三年の火事で焼けた。これはどうも惜しくないようで惜しい。女はねちねちしていて、ついに強情を徹そうとした。それを私はやはり「切支丹気質」の一種類だとあとで思ったのであるが(略)当時の役人の憤怒の心を釈明してくれる史家がどしどし出なければ、私が「デウスさまのみめぐみにより」云々の文句に憤怒を発した心理が永久に分からないのである」

 茂吉の憤怒の心理はおそらく史家の研究によって分かるような種類のものではないだろう。茂吉には気の毒だが、責められる切支丹に同情する者はいても、人の恋文をのぞき見して嫉妬する中年男に心寄せするのは難しい。しかし、ここには茂吉の歌を考えるうえで大切なものが含まれているようで、私はこの憤怒に興味を持つ。茂吉は当時の役人の立場に自分を置いているのだが、その憤怒とは何だろうか。「デウスさまの、みめぐみにより」という呪文に囲われた恋文は茂吉の覗き趣味(茂吉は相当な覗き趣味の持ち主である)に捉えられるやいなや、強烈な好奇心と嫉妬心とをかき立てた。呪文は年頃の男女のありふれた恋物語を謎の塊に変え、容易に満たされない強い好奇心を拒む嚢として茂吉の前にあらわれたのである。同時に、そこには支配に屈しない目下の者への口惜しさも含まれる。そしてもし、これが下女でなく下男であったなら、つまりは若い娘でなかったならこれほどの憤怒を茂吉が覚えたとは想像しがたいのである。

 こうした茂吉の情動は、さまざまな角度から考えられている。従来から語られているように、これは茂吉のエロティシズムそのものであり、このような場面でより個性的に現れる。しかし、これをエロティシズムと呼ぶとき、その情動が含み持つ意味や働きは問われなくなってしまうのではないか。それゆえあえてこの言葉をキャンセルし、その意味に近づきたいと思うのだ。様々に想像しうる一つとして私がことさら興味を持つのは、茂吉が娘を、つまりは<女>をどのように意識し、文学の糧としていたかということである。さらに思いを拡げるなら、近代を実現したとされる茂吉の文学にとって<女>が重要な役割を果たしたのではないのかという直感は果たして正しいだろうか、<近代>にとって<女>はどのような存在であったのかという思いがその先にある。

 この時の娘は、邪宗の末裔という謎を秘めた存在であり、また、茂吉に内緒で密会を重ねるという謎を幾重にも秘めた存在であった。異教徒の呪文はそうした謎と不可解の象徴でもあったろう。このエッセイ全体から感じられるのは目下の女への強烈な嫉妬心と好奇心であり、東京という中心から外れた長崎という地、また、切支丹という異文化に囲われた<辺境>へ寄せてゆく情動である。道具に等しい存在であった下女が途端に女に変貌し、しかも思い通りにならないことへの口惜しさが憤怒の核にあるかも知れない。茂吉にとって<女>とは明らかに劣った生き物でありながら好奇心を誘って止まない存在であったろう。同時に、茂吉にとって<女>はもっとも身近で近づきがたい<辺境>、あるいは<異類>であり、その辺境や異類への接近が茂吉の近代を突き動かしてきたのではないかとさえ感じられるのだ。他にも茂吉のエッセイにこの異類への止みがたい好奇心を描いたものは少なくない。それらは飽くなく眺められ、眺めることで茂吉の命の火照りを呼んでいる。

 

 わが体に触れむばかりの支那少女巧笑倩兮といへど解せず

 『連山』

 

 わがそばに克琴といふ小婦居り西瓜の種を舌の上に載す

 

 夜ふけて露西亜をとめの舞踊をば暗黒背景のうちに目守りき

 

 満州事変前夜と言える昭和五年、満州各地を廻るなかで茂吉はこのような歌を詠んでいる。これら、異国の女達に茂吉が寄せる視線は、直接に女達の肉体に及んでいると同時にそこにかそかな違和感を含んでいる。短い旅の途次ゆえの関わりの浅さが、女達の印象をいやが上にも細切れにしている。それにもかかわらず、茂吉の濃厚な感官がその細切れの女達に及んでいることがわかる。そして女達は肉体として親しく、文化として遠い。そのように女を見ること、感じることが、茂吉の辺境への旅であり、逆に言えば、辺境にあってそのように女と出逢うことが茂吉にとって何ものかに触れるということであったと言えるかも知れない。

 さまざまな意味において茂吉にとって<女>は大切であった。近代日本において女が周縁に置かれた存在であったという認識はすでに周知のものだろう。茂吉にとって<女>が大切であったということは、茂吉がこの近代日本の社会構造に逆らって、女の存在を高く買っていたということを意味するものではない。むしろ逆に、社会的価値の薄いもの、周縁に置かれた存在であったからこそ茂吉の執着と愛の対象となり、その文学を動かし続けたと言えるのではないか。それは何も女のみを指すものではない。むしろ社会の動きが周縁へと押しやり、理解を届かなくしてゆくものゆくものの象徴として<女>なるものが常に茂吉に添っていたと言うべきだろうか。

 

 有島武郎氏なども美女と心中して二つの死体が腐敗してぶらさがりけり

 『石泉』

 抱きつきたる死にぎはの遘合をおもへばむらむらとなりて吾はぶちのめすべし

 

 茂吉の歌の中に不可解な歌は数多いが、この歌もその心動きの不可解で有名だ。先の満州周遊の歌が昭和五年ごろの製作であり、この歌はそれに続く昭和七年の製作である。日本が戦争へと集中してゆく状況の中で、茂吉は心から戦争に感動し好戦的な歌を作っている。同時にこのような歌がどうしても生まれてしまうところに茂吉の文学の性質が覗くように思う。この歌には「美男美女毎日のごとく心中す」という題詞がついている。単なる社会事象としての心中に関心を寄せたのではないことは「美男美女」の記述に明白だ。多くのことが語られている歌であるが、茂吉が有島の心中事件に関心を寄せたのはそれが性愛への強い好奇心を引き起こしたからだろう。茂吉は切支丹の男女の恋に嫉妬したように有島らの心中に嫉妬し、そこにおそらく究極の性愛の成就を想像している。戦争への興奮がなぜか性愛への関心を伴うという茂吉の性向は、角度を変えてみるとき、一つのバランス感覚であるようにも見える。当時の挙国体制の整ってゆく社会の流れの中で男女の心中が流行したというのはそれ自体一考に値する現象かも知れない。そして茂吉の中にもこの些末な、国家の<辺境>の出来事は、それが思い切り些末であり個人的であるゆえに茂吉の中で重量を増したのではなかっただろうか。茂吉にとって性愛、そして<女>は、常に近代国家に釣り合う対極のカオスとしてバランスをとり続けていたのではないか。国家や社会が、挙国体制の戦争という一点に集約されてゆくとき、そこには必然的に辺境が誕生する。そのことと茂吉の<女>への情動はは連動していると思われる。

 こうした茂吉の<女>への関心が、茂吉を、そして茂吉が果たした近代を読み解く上で大切だと考えた者は少なくない。中野重治は『斎藤茂吉ート』のなかで、茂吉が女好きであるか否かをめぐって相当のページを費やしている。そしてその結論とも言えるのが次の文章である。

 

「おそらく茂吉は、ひげも白くなった今日現在においても、女性の前におずおずとして生きているのではなかろうか。茂吉のすべての作品、散文をも含めて、そこから引き出されるのは茂吉の世俗的「女好き」ではなく、むしろ女ぎらい、そういって悪ければーーーこういう言葉はないと思うがーーー女避けであろう。女性における茂吉は、青年における生娘かのようにはにかみ勝ちであるように見える。多分そうであるというのが私の結論である」

 

 中野重治の言う、茂吉の女嫌いは、角度によっては女好きといささかも変わらぬ意味を持つだろう。歌においても、エッセイにおいても茂吉には女好きらしい器用さがなく、好奇心は直接に好奇心として露出し、時には怒りや違和感という不器用な感情として突出している。下世話な意味でも、女好きは女嫌いとセットになっている場合が多い。茂吉は近代精神の<辺境>として女に強く惹かれ、「おずおずと」「はにかみ勝ちに」女に視線を送り続けた。同時に、その<辺境>を辺境ゆえに嫌い、また必要としたのではなかっただろうか。

 例えば『赤光』はあらためて眺めてみると、<女>の彩り濃い歌集である。茂吉の出発にあたって、<女>がすでにその中心にいたことはいまいちど眺めておくべきかもしれない。「をさな妻」「死にたまふ母」「おくに」「おひろ」などの連作はそれぞれに典型的な<女>像を形作りながら端正に描かれている。だが、そうした直接のテーマとならない部分にも<女>は常にどこかにいて、汎女性的ともいえる世界を創り上げている。

 

 浄玻璃にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ

 「地獄極楽図」

 赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ

 

 あまつ日に目蔭をすれば乳いろの湛かなしきみづうみの見ゆ

 「蔵王山」

 死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁の色のみづ見ゆるかな

 

 それぞれの連作中で、これらの歌はことさらに目を引き、連作の性格を決定していると思われる。「地獄極楽図」では、裸の女が地獄にエロスを漂わせ、絵空事としての空間に生気を放っている。言うまでもなく茂吉はこの裸の女の阿鼻叫喚の美しさに惹かれている。そしてその情欲が古ぼけた絵を鮮烈なものに変え、近代に引き出しているのだ。「蔵王山」では、「乳いろ」が強調されている。茂吉が自らの故郷ゆえにそれを母のイメージで捉えたとしても当然だが、この歌から感じられるのは母郷としての母ではなく、女の最も女たるエッセンスとしての「乳いろ」のように思えてならない。『あらたま』において「あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや」と詠われた時の母に通じる、女のもっとも女となった瞬間の肉体への憧れと性的な関心がそこに働いている。

 そして今ひとつ注目しておかねばならないのは、茂吉にとって<女>と同様に、時にはイコールで結ばれるような存在であった患者達への心寄せである。

 

 くれなゐの百日紅は咲きぬれど此きやうじんはもの云はずけり

 

 気のふれし支那のをみなに寄り添ひて花は紅しと云ひにけるかな

 

 「狂人守」の一連は、もの悲しく小暗い情熱に包まれている。茂吉が<女>とともに描かざるを得なかったのは、やはり近代国家の周縁に追いやられた人々だった。患者たちは無言で辺境に棲み、独特の生の掟を守っている。この人々は茂吉にとって<女>という<異類>とほとんど変わりない不可思議を湛えて言葉を喚起したのではなかっただろうか。茂吉はこうした人々を含む<女>という辺境を短歌によって追いかけ、<女>に喚起される自らの情欲に肉薄することで短歌の近代を創り上げたと言える。しかし、それはあるいは短歌という辺境の文学であるゆえに可能だったかもしれない。短歌という形式が近代文学の周縁であり、この詩形はそうであるゆえに周縁に棲むものたちを呼び寄せてやまなかったのではないか。

 あるいはこう言えないだろうか。森鴎外が『舞姫』において、エリスを狂気に追いやることで無理矢理閉じた物語は、茂吉においてそこから始まった、と。茂吉は、狂乱するエリス、すなわち近代における<女>を「狂人守」としてつくづくと眺め、その辺境に追いやられた生に照らされる自らの生と性とをいとおしんだ。それはいわゆるヒューマニズムではなく、もっと奥深く残酷で我が儘な自我の確認であったような気がする。