茂吉の戦争

「かりん」25周年記念号 2003年5月号

 

 いつのころからか私にとって茂吉が奇妙に存在感を増しはじめている。気がつけば、戦後的文脈は途切れ、私たちは明らかに戦前という未知の脈絡に放り出されている。今度こそ始まりも終わりもない戦争の時代となり、ともあれ人類が造り上げてきたなけなしの秩序さえ通じなくなるのではないか。そんな不安の中で、茂吉は、時空を超えて私たちの時代に合流し、併走しているように読めることがある。その茂吉こそ近代短歌の大御所であるより以前に、戦争の時代に生き、戦争を遠望しながら時代に流された一知識人だった。そして大戦中にはその昂揚を歌い上げて顧みない平凡な一国民でもあったのだ。しかし同時に、その凡庸さ、時に愚かさは、今も私たちの傍らにあるかのような生な息吹に満ちている。戦後的文脈が茂吉の戦争詠を断罪した時開けていたはずの明快な視界、その視界の効かぬ所で茂吉の言葉は短歌そのものの性質を養分にするように繁茂し生き残り続けた。その鬱蒼とした部分が気になるのだ。茂吉は今も生々しく、片づかない塊として私たちの傍らにあり、終わらない何かを見せつけているのではないのだろうか。

 

1 茂吉の開戦

 茂吉はあらためて考えてみるとその生涯の大方を戦争の時代に生きた人だった。日露戦争から第二次世界大戦の敗戦まで、年齢で言えば二十三歳から六十四歳まで、物心ついてからに限ってみても多くの時間、戦争は茂吉の傍らにあった。日露戦争時には、長兄と次兄が応召している。茂吉が定本とした改選『赤光』の巻頭一連はこの兄の従軍が主題となっている。

 

  書よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり

 

  戦場の兄よりとどきし銭もちて泣き居たりけり涙おちつつ

 

  真夏日の畑のなかに我居りて戦ふ兄をおもひけるかな

 

  はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に

 

  たらちねの母の辺にゐてくろぐろと熟める桑の実を食ひにけるかな

 

 この一連はあらためて読み直してみると、茂吉と戦争の関わり、ひいては茂吉の精神の原型を示しているようで興味深い。兄たちが呉れた「銭」は、兄たちの愛の証であり形見となるかもしれないものでもある。茂吉はそれを握りしめて泣いている。なぜ泣くのか。それは単純な兄の愛への感謝とか心配ではないはずだ。この「銭」の感触には「お前は学問の道を行け、戦になど出るな」という強い命がこもっている。茂吉はこの時、生涯銃後にいることを自らの運命として感受したのではなかったか。それは、一方では限りない恩愛であり選ばれた者の証だが、また一方ではあの時代を生きた男子にとってなにがしかの屈辱を含むものであったということはないのだろうか。銃後の生を直感として噛みしめた涙、この歌にはそのようなほの暗さがつきまとっている。そしてそのほの暗さを纏いつつ茂吉は母という存在に近づいているのだ。家の中では嘆くことさえ許されなかったのだろうか、畑に出て兄たちの身を案じる母。その母の苦しみに添うように茂吉も真夏の畑にいる。この一連からは兄たちの応召を契機に一変したであろう空気が感じられ、そのなかで桑の実はことさら茂吉の精神に訴えて、「くろぐろと熟」んでいる。

 塚本邦雄は『茂吉秀歌』を初版『赤光』に拠っている。「悲報来」を巻頭に据えた初版は、印象として改選版のこの一連より方法的新しさ、近代性がアピールされているように感じられる。塚本がその初版の方を採用したのもあるいはそこに積極的な意味があったかもしれない。しかし、「悲報来」に比較すれば遙かに素朴な編年体のこの一連を巻頭とする改選版を茂吉自身が定本としたこともやはり重要なことに思える。この一連は、見ようによっては兄や母への愛、肉親愛の素朴な表白に見える。しかしよく見ると、茂吉の母への視線は一通りの愛や同情ではない。特に五首めなどはなにか過剰な精神の働きがある。真夏の明るさの中で黒い木の実は不安な翳のようにつぶつぶと葉陰にある。同時に桑の実の暗色は暗ければ暗いほど、強い甘みを意味する。桑の味の記憶は幼年時の甘美な味覚の記憶、微かなエロスを含んだ記憶を引き寄せたはずだ。この桑の実の不安の色合いと甘さの記憶とを介して茂吉は母に近づき、その心象風景に入り込むかのように夏の日を浴びているのである。

 茂吉は創作活動の初めにあって、母の視線と心の風景に乗り移るように世界を眺めている。始まろうとする戦争の不安は、近代の父の視線を借りては表現しようのないものであったはずだ。それは、社会に対して常に公式のスタンスをとるほかない家長の視線であり、世界の裏側を拒否するほかない視線だからだ。しかし、母の存在、ことにも社会の裏側に位置づけられてきた近代の女性に目線を合わせることは、茂吉に、起ころうとしている戦争の裏側に蔵われたものを感じさせたのではないか。桑の実の歌には、家族への愛にとどまらない不安の予感があり、それは母を介してリアリティーを持っている。結果として茂吉は生涯を銃後にあり、直接に戦争を体験することはなかった。それゆえ常に何かを通して戦争を感受するという独特の感性を形成している。その事と母への接近は、おそらく密接な関係にある。巻頭の一連は、茂吉の生涯にとって戦争の始まりを告げる歌であり、また、茂吉と戦争の関係を方向づける一連でもあった。一つには銃後にあるということ。もう一つには女という性に接近することで世界を感受するという独特の感性において。

 

2 情報と視野

 銃後にあるということの意味は、戦争に参加していながら戦闘を直接には体験しないことにある。その事は茂吉の意識や作品の形成に少なからず影響している。日記を見てみると茂吉は戦争に並々ならぬ関心を寄せているのが分かる。しげしげと明治神宮を参拝し、あしげく浅草や渋谷のニュース映画を見に通うという行動は、茂吉なりの戦争への参加であったにちがいない。門弟を戦場に送っていた茂吉にとっては、「戦線より便りあるとき映画にて補充をしつつ今も偲びつ『寒雲』」というものでもあった。日記を見てみると次のような記事が目を引く。「コノゴロハ戦争記事ニノミ全力ソソグ(昭和十三年五月二十五日)」。国民歌の作詞を渋々引き受けた同年十二月二日には、「渋谷ノニュース映画館ニ入リ、鰻ヲクヒ、二タビ映画館ニ入ツタトコロガ、煩悶ガ薄ライダヤウデアツタ」と記す。まるで火事現場の人垣を分けるように戦況を知りたがり、一方でニュース映画を見ることが茂吉の大いなる慰めにもなっていたことが分かる。おそらくその好奇心は戦時下の平均的な市民以上だったはずだ。飢餓感というものが、欲求に対する満足度の少なさについて言われるなら、茂吉はまさに情報飢餓といってもいい状態で銃後にあったのである。茂吉の戦場の歌は、ほぼ全てが映画、ラジオ、新聞などの間接情報に拠っている。

 

  おびただしき軍馬上陸のさまを見て私の熱き涙せきあへず

『寒雲』

  大冊河わたれる兵の頸までも没すと聞きて吾れ立ち歩く

 

 どの歌も当時戦闘情報の主要な窓口であったニュース映画をもとに作られている。一首目、二首めともに昭和十二年の支那事変初期の映像である。茂吉は単に映像を見るというより、映像に呼吸を合わせ、映像の戦とともに生活している。一方で「をとめ等は玉のごときを好しとせり映画の中のをとめにてもよし『暁紅』」と詠むように映画は茂吉のもう一つの飢餓感を慰める機会でもあった。

 

  美女の顔たちまちにして驚くばかり大きく映り睫またたく

『寒雲』

 

 大きな飢餓感や欲望を抱えた人間が限られた情報にのめり込むとき生まれる歪み、それが茂吉には極めて素直に生まれている。ある種の視野狭窄といってもいいだろう。この歌は映像のデテールの拡大だが、こうした拡大や肥大、そして視野狭窄状態は、茂吉の精神全体にも及んでいるのではないか。昭和十六年八月、情報局は映画の国家管理を断行し、娯楽映画は完全に姿を消す。茂吉の限られた情報源も娯楽もいよいよ狭いものになってゆく。茂吉は銃後にあってある抑圧状態にあったと思う。その抑圧が限られた情報によって晴らされていたのだ。そのことと茂吉の戦時詠とは深い関係にあるに違いない。

 

3 女と小動物

 そうした抑圧状態、視野狭窄状態と無関係ではないと思われるのが茂吉の女に対する執拗な関心だ。戦争と茂吉との関わりを見てゆくとき必ず気になるのが、この視線なのだ。中野重治が『斎藤茂吉ノート』のなかで論じた「女人にかかわる歌のうち」、それを受けるように小池光が書いた「茂吉における嫌なもの」、いずれも女に関わる歌を問題にしている。

 

  平凡なる邪宗といへど女等を説伏すときはおもしろきかも

『暁紅』

  行ひのペルヴェルジョを否定して彼女しづかに腰おろしたり

  宋美齢夫人よ汝が閨房の手管と国際の大事とを混同するな

『寒雲』

  宋美齢夫人ほそき声して放送するを閨房のこゑ混同するな

『寒雲』

 

 しばしば取り上げられる歌であり、多くの説明を要しないだろう。また本当のところ説明しようもない不可解な歌なのだ。どの歌にも女への関心が動いており、嗜虐的なと言ってもいい女への視線が投げ出されている。読者は謎をとけぬまま正体不明の不快な感覚を受け取ることになる。「邪宗」が何であれ、女を遙かに見下す感情から「面白きかも」が出てくる唐突さ、宋美齢の声から直ちに「閨房」を思う反応の過剰さ。一方で安部定事件に寄せた二首めには不思議な安らかさが漂う。あれは倒錯愛(ペルヴェルジョ)ではないという定の主張に茂吉は共感しているのである。読者は、安部定の有名な新聞写真を思い浮かべ、あの微笑に重ねて茂吉の奇妙な安堵感を受け取ってしまう。グロテスクで屈折した感情と、「閨房」への好奇心の突出。まるで、自らの性をもてあますかのような右往左往であり、暴力的な衝動さえ背後に充満している。

 中野重治は宋美齢の歌二首を素材に次のように述べている。

 

『いわゆる茂吉におけるエロチシズム云々は、青春期、特に青年期以上の日本の普通の男どもが、彼の歌の一連に彼ら自身ひそかな慰めを見いだした事実にかかわつていた。そしてそれが日本男子の光栄でもなく、短歌の光栄でもないと同時に、歌人の道に、一個人としては容易に動かしがたい一般的歴史的停滞原  因のあつたためであることをもそれは示している。茂吉におけるいわゆるエロチシズムは、一種の低回派であるということができる。それが彼の特色といわれていることは、彼の思考をこの領域に拘束したものとの関係において、日本文化の最近の時期における、また茂吉自身における、一種の悲劇として見られて大過ないものであろう。』


 中野が語っているのは日本の置かれた状況とこれらの歌が無関係ではなかったということであり、こうした鬱屈したエロチシズムが「日本文化」の「悲劇」にほかならないということである。この事は、小池によって少し別の角度から語られてゆく。小池は先の四首に加えて「小路には歩兵の隊にはさまれて制服の処女ひとり歩き居り『暁紅』」などを論じた上で次のように述べる。

 

『茂吉の戦争の歌、軍服の歌には、こういう具合にして絶えずちらちらと女の影がさしているようにおもわれる。ミリタリズムとエロチシズムが交錯する。ここになにがあるのか。重大なものがあるような気がする。それはいま自分には解けないが、茂吉個人の特殊、例外的視線ではなく、日本の近代そのものがもっていたふかい欠落のようなもの、そこへまっすぐ伸びてゆくひとつの道すじである。』


 確かに茂吉においてミリタリズムとエロチシズムは交錯している。ことに戦時色の濃くなってゆく『暁紅』『寒雲』の時期にはこの傾向はより濃厚になる。小池の挙げていた「小路には歩兵の隊にはさまれて戦服の処女ひとり歩き居り『暁紅』」「ドイツ製の兜かむれる支那兵に顔佳きをみなご立まじる壕『寒雲』」の他に、次のような歌もある。

 

  南京の陥落戦を免れたる支那の将軍いつか妻に遭ふ

『寒雲』

 

 日中戦争での南京戦、いわゆる南京虐殺を背景にしている。南京で虐殺があったことは当時の国民には知らされていない。しかし、逃げ延びたと報じられた敵方の将軍を思い、真っ先に妻に遭うだろう、と想像するのは奇異だ。この歌は夫婦の愛を讃えているのではない。命からがら再会した夫婦の性的な結びつきを戦闘の記事から夢想している。茂吉の何かがそう読ませると言ってもいい。しかしそうであれば相当異常な感じがする。一首のなかで、ミリタリズム、エロチシズムの混交が見られるのはそう多くないが、連作中に二つの要素がセットになって出てくる例になるとこれは夥しい。むしろほとんどの場合二つの要素は並べ置かれている。

 

  軍隊の通り過ぎたるうしろより心しみじみと見てゐる吾は

『暁紅』

  西洋も然にあれかも街ゆくをとめはなべていよよ美し

 

 茂吉はこの時明らかに銃後にある自分を意識している。この「しみじみ」がどのような感慨なのかはこの歌からは読めないが、茂吉が戦争というより戦闘に並々ならぬ関心を寄せていたことを思えばそこにいくばくかの羨望が混じっていると考えてもいいだろう。その羨望がそのまま「をとめ」に移ってゆくのである。軍隊が通り過ぎ、その事によって少女たちは「いよよ美し」くなる。二つの要素がセットで現れることが当然であるかのように。茂吉においてミリタリズムとはかなりはっきりと自らの性を鼓舞し、渇きを代償するものとして意識されていたはずだ。ここに永井ふさ子との関係という私的な背景を重ねてみてもこの見方の大筋は変わらないだろう。それゆえ女の性は、自らの男性を完成させるために是非とも強調され隣接されねばならなかった。いや、むしろ女の性の強調、突出なしにはミリタリズムは鼓舞されえなかったのではないか。この事は茂吉個人を超えて日本の近代のある性質に及びうる。

 

4 茂吉の戦争と近代

 中野も小池も茂吉の性格を決して茂吉一人の特殊なものだったと見なしていない。むしろ茂吉の中に日本近代のある性質という巨大なものの片鱗を見ているのである。茂吉のように詠ったのはついに茂吉一人だった。彼の言葉や方法は真似して真似られるようなものではない。それにも関わらず私たちは茂吉の中に、私たちの歴史に通じるもの、見たくないものをまざまざと見てしまうのだ。

 『暁紅』『寒雲』は戦時色の最も濃くなった昭和十年から十四年にかけて製作された歌が収められている。この時期の出来事を眺めてみると次のようになる。昭和八年、ナチスが政権を獲得。日本は国際連盟を脱退している。十年には「ナチス・ドイツにならい日本も大和民族の血の純血を強化するため」に民族優生保護法案が国会に出される。これは十五年に国民優生法として成立する。十一年には二・二・六事件が起こり、翌年日中戦争に突入、日本軍による南京虐殺事件が起こる。このころの日本人の寿命は、男四十四、八才。女四十六、五才。テロへの報復攻撃を受けたときのアフガニスタンとほとんど変わらない。そして十四年、第二次世界大戦へと突入する。世界の緊張が増し、日本の孤立と暴走が深まってゆくなかで人々の生活は困窮し、常に命の危機と共にあった。同時にヒステリックな高揚感も充満していたとも言えよう。

 中野は同時代を共に生きながら時代の空気を感じとり、そのエッセンスを茂吉に見た。歴史的には大事件が次々に起こるにも関わらず、茂吉の感性からは事件や場面の全体が消え、局所的な一部分のみが拡大してゆく。そうした視野狭窄の中で女と同様に茂吉の内面を映し出すのが小動物の歌である。「よしゑやし鼠ひとつをころしてもわれの心は慰むべきに『暁紅』」と詠うように、茂吉は自らの抑圧された情動を鼠やダニ、蚤などに向けている。

 

  鼠らを毒殺せむとけふ一夜心楽しみわれは寝にけり

『暁紅』

  辛うじて二つ捕へし家ダニを死刑囚の如く吾は見て居り

 

 「毒殺」「死刑囚」といった言葉の過剰さを茂吉はむしろ意識して使っている。やり場のない情動を鼠やダニにぶつけるとき、その過剰さは滑稽と悲劇とをともに背負ったものとなる。茂吉がその悲劇を意識していたかどうかは分からないが、こうした情動が近代に仕舞われたある鬱屈した性質と無関係には思われない。

 中野重治が「一個人としては容易に動かしがたい一般的歴史的停滞原因」と呼んだ問題とは、文芸と日本近代の精神の致命的な欠陥を指したものだった。時代も方向も違えながら、例えば有島武郎や太宰治が女の道連れなしに死ねなかったことと、茂吉の戦時下の情動とはそう遠い関係ではないのではないか。茂吉は女や小動物に夢想の暴力を振るいつつ、あの混沌とした戦争を「生きた」のだった。それは、茂吉という類い希な興味深い人物の戦争の乗り越え方であったと同時に、あの時代を生きた人々の心中深く仕舞われた鬱屈した本音に訴えかけるものだったのではないか。近代短歌という文芸にとってまさに戦争はそのように乗り越えられたというべきではなかろうか。 茂吉の戦争は、いわば内面を戦場とした戦争であった。知識人としてその内面の戦場を回避する器用さのなかった茂吉は、はからずも内面写実とでもいうべきものをこの時期に徹底してしまった。人間の価値のあまりにも低い戦場を映し出すように女を嗜虐的に眺め、強大なアメリカに対して敗退を重ねてゆく日本軍のリフレクションとして茂吉は蚤や鼠と戦った。人間として凡庸でありながら卓抜な言語感覚をもっていたゆえに、茂吉は、おそらく∧たまたま∨偽らざる人間性の荒廃を描いてしまったのである。

 戦時中のいわゆる「制服的歌」によって糾弾された歌人は茂吉に限らない。ある意味で「制服的歌」は戦後の理念の中で語りおおせるものであり、片の付きやすいものだったとも言える。イデオロギーは最も表面的に簡単に糾弾できるものだからだ。それは、茂吉自身が「制服的歌」(「アララギ」昭和十七年五月号)で語っているように、「一様の武装」によって「単調にならざるを得ぬ運命」にあったから文学としてつまらぬのであり、「国家的で、個人的でない」いからイデオロギーとして浅薄なのである。

 しかし茂吉の内面の戦争はどのように糾弾すればいいのだろう。それは、今も私たちにグロテスクで不可解で、不快なものを見せつけている。しかしそれを誰が糾弾出来るのだろう。現代を生きる私たちは、まだはっきりと茂吉のグロテスクさをそれとして相対化できる位置を見いだしておらず、またそれを指させるほどの距離にもない。不幸にもそこにおいてこそ茂吉は新しいのだ。

 

             *


 近年の方法的な保守傾向を近代回帰という。しかし私たちに回帰すべき伝統と化した近代など本当にあるのだろうか。茂吉は回帰してゆくにはあまりにも生々しく未解決のまま傍らにあり、方法となるには未解決にすぎる。そして私たちは茂吉が生きた時代とあまりにも似た空気の中を泳いでいるではないか。