「日本」と刺し違えた人

— 山中智恵子論 —

『歌壇』2006年6月号

 


 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 

 『みずかありなむ』

 

 人間の背負う普遍的な生の営みの哀しさをこれほどの深さで奏でた歌を、私は他に知らない。「行きて」は当然「生きて」に掛かるだろう。鳥髪の地に追われたスサノヲの悲哀は、「さらば明日も降りなむ」と救われがたく、しかしそれでも行くほかない哀しみなのだ。われわれは生きる限り幾度でもこのようにかなしみを背負い直さねばならない。この「かなしみ」は誰の心でもありうる。背負い直すという心の深みの働きにおいて、この歌は広く心に染み渡ってゆく。

 同時にこの歌は、山中が生きた時代と密接に関わっている。この歌ほど戦争を経て傷ついた言葉、戦後の言葉との格闘を深いところで思わせる歌は他にない。スサノヲの悲劇は戦争を潜った人々一人一人の悲劇であったろう。そしてこの古代の物語の磁場にまで立ち返らねば口にすることのできぬ言葉として「かなしみ」はあったのではなかったか。日本の戦後とはこの「かなしみ」さえ失った時代であったのではなかったろうか、と思うのだ。言葉を取り戻しにゆくこと、真の言葉を古代の物語の世界にまで問いにゆくことは誰かがやらねばならなかったはずだ。その意味で、山中智恵子こそ最も深く戦後を背負い、言葉の戦後を糾弾し、また癒し、磨いた歌人であると思う。山中の果たしてきた役割が見失われるとき、短歌が苦しみつつ辿った戦後の歩み、言葉の背負った戦後の役割、その意味が見失われることになるのではないか。

 『みずかありなむ』において、「私はことばだった。私が思ひの嬰児だったことをどうして証すことができよう」と詞書きされるとき、「ことば」は古代にまで遡り、その始原において抱え直される。

 

 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 

 『みずかありなむ』

 

 このように詠われる時、月は無垢の美しさに現れる。しかしこの歌は古代神話の牧歌的世界に遊ぶのではない。三輪山神話の時代の力を帯びた月によって照らされるのは、その後の長い世界の転変であり、「月」が言葉として疲れやつれた世界なのである。戦争、そして戦後、さらには六十年安保という時代の曲折は、人の生死や物質の窮乏などのあからさまな悲劇であったと同時に、日本文化、その一部である言葉の深刻な危機でもあったろう。戦時体制に迎合した短詩型文学の弱さを衝く第二芸術論も、それに応えるように起こっていったいくつもの文学運動も、巨視的に見れば戦争によって瀕死となった言葉の文化をどう蘇生するのかという問いに貫かれていたと言えよう。文化的な側面から六十年安保を含む戦後の流れを今日の目で眺めるとき、戦争によって自ら傷つけ荒廃した言葉と文化をいかに方向付け、築き、あるいは蘇生させてゆくのかという強い危機意識を巡っての争いだったのではなかったか。

 例えば「月」を取り戻し甦らせるために、一体どのような力が、何が必要なのか。山中の存在感を決定的にした『みずかありなむ』が三輪山神話という古代の磁場によって詠まれていることにはこうした時代との濃厚な関わりがある。山中はそのことに優れて自覚的であった。

「聡明叡智、よく未然(ゆくさきのこと)を識る」と『日本書紀』に録された倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は、その卓抜な交霊能力のゆえに、祭祀と政治の経緯(ゆくたて)を見透す眼の明晰のゆえに、あきらかに村国の原理の変革があったと想われる、神人分離期の哀歓を負って、西方の男巫、大田田根子に祭祀権をひきつぎ、自死したひとと想われる。(略)百襲姫は王権を負いつつ、その貌は三輪山の土着神に向けている。王権の側に立ち、三輪山を鎮めつつ、情念において、土着の人びとの血と汗のこころをあつめ、反王権の祈念を負った高貴な巫女の、美しい反逆死の、最初のかたちではないかと思われる。


 『三輪山伝承』にこのように語る時、山中は明らかに倭迹迹日百襲姫命に思いを寄せている。大和王権の守り神である三輪山を鎮める巫女という、いわば政権の中枢部にありながら、根本の魂において政権に背いていた巫女。その心中深くにおいて大和政権より遙か昔に連なる歴史を秘めた三輪山、そこに根付いてきた人々の心を自らの拠り所とし、代弁しながら大和王朝に仕えるしかなかった巫女。倭迹迹日百襲姫命は山中自身である。この歴史の歪みのただ中に身を置いた巫女を自らに重ねるとき、はじめて見えてくる日本の戦後の心と言葉とがあったのではなかったか。

 『三輪山伝承』は三輪山の神を「三輪山の神は、青草びとの罪けがれを一身に負って、鳥髪の地に逐らわれた、荒ぶる神素戔鳴尊の神統につながる、大己貴神の和魂、大物主神である」、「∧生(あ)れ魂(みたま)∨から、なだめがたい∧荒魂(あらみたま)∨として顕現した大物主神は、変革期にはつねにすさぶ」、「熄みがたくゆき、現し世に挫折し滅びるほかない人びとの心に、大物主神は思い出される」と記す。山中にとって大物主神が歴史の中に言葉をもたぬ人々、近くは戦中戦後を生きる人々につながる象徴であることは容易にうかがえよう。その荒ぶる神が古代世界への郷愁や逃避によって呼び出されたのではないこともまた明らかだ。それは、

 

 その問ひを負へよ夕日は降ちゆき幻日のごと青旗なびく

 

を引きつつ北川透が、「決して回帰するところではなくて、始原そのものから、始めようとする意志」と山中の世界を語ることと重なる。青旗が何を象徴するのかは定かではないが、少なくともこの旗がイメージさせるものは、勝利の旗であるはずはない。むしろ葬送の旗、寂しい人々の群れとして、言葉無く滅びた人々の幻影として立ち現れているのではなかろか。「その問ひを負へよ」とは、そうした人々の声なき声を背負う意志であり、その魂が告げがたく告げ得なかった言葉を背負う志に他ならない。ここにはむしろ終わることのない戦争が幻影として現れているとさえ言える。日本の戦後の悲劇は、悲しみを悲しみとして表現し、痛みを痛みと言えなかったことにある。同時に悔いるべきを悔いる言葉を持たなかったことでもある。新しい思想もプロパガンダもとうてい触れ得ぬ深みでどの人々の魂も痛み、苦しみ続けていたのではなかったか。

 この巫女の、身を揉みつつ声を殺すしかないような立場において掴まれた言葉こそは、日本の戦後の代弁であった。魂において王権を裏切り、王権の懐深くに身を置くという矛盾した立場に日本の戦後の魂を重ね思うことは無理ではあるまい。この古代の物語に遡行することによってしか蘇生しない魂をもつ言葉があり、息吹を恢復する言葉があったのだ。

 

 青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや 

 『みずかありなむ』

 大君のみことばよりも愛(かな)しくて真穂(まほ)の三輪川七曲りなす 

 同

 

 思うということの濃い能動性において「今」を超えようとする意志、「大君」を巡りを迂回し曲折しつつ流れる三輪川の水は山中がこの時掴んだ言葉そのものの姿をしている。

 

 秋の日の高額、染野、くれぐれと道ほそりたりみずかなりなむ 

 『みずかありなむ』

 

 このように詠まれる時、「みずかなりなむ」は「見ずかなりなむ」であると同時にあるいは「水か成りなむ」を暗示しているのではないか。くれぐれと細ってゆく道の奥に人知れず湧き続ける水のあることをこの歌は自ずと思わせるのだ。この秘やかな能動性において、村上一郎が編者として「みずかありなむ」、つまり「見ずかありなむ」という意志をタイトルに加えたことと山中の詩精神とはいくばくかニュアンスが異なるように思う。

  『三輪山伝承』は次のようにも語る。

 

『鎮魂とは遠くにある他者の魂を恋い、ここに待つもののあることを告げることであった。鎮魂の座は請いの座で あり、恋の座であった。極度に張りつめた待つこころは 美しい乱調を生み、鎮魂は激しい願望と情念にみちびかれるものであった。』


 歴史の歪み亀裂深く置かれた魂が、その歴史の此岸から彼岸へ、河岸から此岸へ、とうてい架かるはずのない橋をを掛け渡そうとするとき、一体何が橋である言葉を産む基となるのか。山中はそれを「請」であり「恋」であるとする。恋の根本にある心動きが、止みがたく自らを超え、ここを超えようとする情動にあるとするなら、歴史の歪みを超えうるものも恋の情念に似ている。むしろ恋そのものであると山中は語る。この恋は一人の生身の女の恋であるというより、それを遙かに超える歴史への働きかけ、正史の背後に姿無く流れてきた力そのものではなかろうか。歴史のなかに言葉を持たぬ者、埋もれるほかなかった者は、恋の力によって心を遂げ、歴史に働きかけようとしてきたのである。山中のこのような言葉のありかたを、上田三四二は「戦後短歌史」の中で次のように語っていた。

 

『巫女は素質として内部に感性の磁気嵐を装着するもので あり、狂女は、外界との親密な関係の崩壊ーーーくだい ていえば生活上の躓きによって、錯乱を強いられたもの である。(中略)巫女はこの人生的な悲運の契機を必要 とせず、いわば反自然的な自然との交感という逆説的な 方法によって人生を超越し、その言葉を呪言ないしは神 託たらしめる。』(「短歌」昭和四十五年七月号)

 

 また菱川善夫は「現代女流短歌論」のなかで女歌一般を視野にしつつ次のように語る。

 

『女歌と古典、この伝統の根の中に自己をつなぎとめ、過 去と現在の凝縮の中から、女の情念や怨念を、あるいは そこに密閉された血の行方をみつめるという方法は、宿 命的な女歌の自覚であり、かつ宣言ではなかったか。言 葉をかえるなら、それは女の地獄を通して、現代の魂を みる方法であるといってもいい。』(「短歌展望」昭和四十四年三月号)

 

 こうした批評は、山中の在り方のある部分を言い当て、またある部分を見えなくしている。山中の言葉に女というフィルターを掛けるとき、方法論を遙かに超える方法がそこに浮かび上がる。「呪言ないしは神託たらしめる」と語られるとき、また「女の地獄を通して、現代の魂をみる方法」と語られるとき、それはかつて無かった方法と言葉への驚きであろう。かつて無かった文脈の誕生をこうした批評は積極的に取り上げてきた。しかし、またこうした見取り図はあらかじめ女の言葉が女という限界の中を生きることを宿命づけてもいる。「巫女」は巫女であるかぎり女であり、どのような普遍性に届いたとしても、それは女という彼岸のものになってしまうのだ。山中が『みずかありなむ』において自ら名告った巫女、倭迹迹日百襲姫命の言葉と心とはそのような限界において読まれるべきものではないのではないか。女歌を語る難しさはここにある。

 折口信夫が、「女人の歌を閉塞するもの」(「短歌研究」昭和二十六年一月号)において語ったのは、一言で言えば、写実一辺倒であった近代以降の道を切り開くためのポジティブな旗としての「女歌」であった。それが、女を括り宿命づける囲いとなったとき、あるいは見晴らしの良い文学史的視点は失われ、「女歌」の意味も見失われたのではなかっただろうか。折口の語りには戦後の言葉を蘇生させようとする意志が掛けられていたのであり、「現実主義」ではその課題を克服できないと考えられていた。戦前と戦後、この引き裂かれた思想と言葉と心の亀裂を超えうるのは、「女歌」という名の水脈であろうというイメージが提出されていたのであった。そうであれば、山中智恵子はあるいは最も大きくこの期待に応えた歌人であったと言えるかもしれない。

 山中がしてきた仕事は、歴史の歪み、割れ目を彼岸と此岸に分けることではなく、またその亀裂を見えぬよう埋めるのではなく、その割れ目、裂け目に自ら身を投じることであった。「日本」の懐深く、その罪も汚れももろともに引き受ける地点から言葉を汲み上げること、そのことによって最も深い「かなしみ」に近づき、言葉を蘇生させようとしたのである。その仕事は「巫女」という呼称の神秘の中に模糊と包まれてしまうべきではない。

 こうした山中の仕事の一つの頂点と言えるのが昭和天皇の死を詠んだ一連であろう。

 

 天皇制はいかにあるべき大喪の誄歌流れて氷雨降るとき 

『夢之記』

 いつしかに統(すめら)を捨てて春の筏とうとうたらりあそぶ黒翁 

 

 氷雨ふるきさらぎのはてつくづくと嫗となりぬ 昭和終んぬ 

 

 青人草あまた殺してしづまりし天皇制の終を視なむ

 

 草と草の間に死を書き葬といふこのうつせみの終身に沁む 

 

 天皇制雨師としはふりひえびえとわがうちの天皇制ほろびたり 

 

 天皇制の無化ののちわが死なむかな国栖奏の邑過ぎて思ほゆ 

 

 春日井健はこの連作について次のように語る。

 

『彼女のなかの天皇制はほろびても、天皇制そのものがほ ろぶわけではないだろう。「天皇制無化ののちわが死な むかな」という夢は見ることができても、天皇制そのも のが無化されるわけでもないだろう。むしろ、「断弦の ごと昭和終んぬ」の措辞などを見ると、昭和という時代 への思いが、ことごとく殲そうとする彼女の志が、苛烈 な批判と一緒に伝わってくる気持がする。』(「現代短歌雁」一九九四年四月号)

 

 春日井はこの文章のあとに「その思想の根源に右を切ると同時に左を切る両刃の剣のようなものを覚える」と書き、また「天皇制と刺し違えるような迫力」とも書く。おそらくこの一連について語られるへきことは春日井の言葉に尽きているだろう。亡くなった昭和天皇を黒翁と呼び、自らを嫗と呼ぶとき、長年連れ添った夫婦のような懐かしみも細い一筋の情となってそこに感じられる。大和王権に魂で背きつつ懐深く抱かれた巫女がそうであったように、山中はなつかしみという絶ちがたい糸をたぐりつつ天皇制の懐深くに降りてゆく。そして「青人草あまた殺し」た天皇、「草と草の間に死を書き葬といふ」とその葬送の意味が鋭く批判するのである。いったい誰がこの深さで天皇制を糾弾し、戦後を問い得たであろうか。

 戦後という言葉が意味するものも今はほとんど掠れ、古びてしまっている。しかし、言葉との格闘において最も深く「日本」の懐に入り、その罪と汚れと同時に最良のものを導き出すという、さながら「日本」と刺し違えるかのような魂の掛け方をしてきた山中の調べは、今も生々しい心そのものとしてここに残されている。