『ヤママユ』2005年 3月号
もし戦後短歌史に前登志夫がいなかったら短歌の世界に山は失われていたかもしれない。最新歌集『鳥總立』を読みその思いを強くしている。山とはもちろん文学にとっての特別な物語の時間と空間であり、吉野という場である。短歌史に現代の扉を開いたとされる前川佐美雄は、背後に濃厚な葛城山の気配を背負っていた。どれほど暴れようとも動かぬ深閑とした山の歴史と時間と物語の空間は前川の言葉を遠く支えていたのではなかったか。モダニズムは時間や歴史との強烈な緊張関係を持ち、互いに作用し合っていたのだ。しかし戦後登場した前には焼け跡が残されていた。それは現実としての焼け跡である以上に、歴史と時間と物語の廃墟であり焼け跡である。文学の世界において山はやはり一度死んだのであり、そこには切り株となった言葉と物語の世界が広がっていたのではなかったか。
かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり
『子午線の繭』
樹に告ぐる飢ゑ透きとほる鶸の朝つぶさに懸かる白き日輪
同
死者も樹も垂直に生ふる場所を過ぎこぼしきたれるは木の実か罪か
同
これら、あまりにも有名な歌は、詩的なインスピレーションによって感知された戦後の風景であり再生への仄めきだ。明るく張った韻律によって描き出された観念の自然であり、しかしそこには荒涼とした遠景が添っている。どんな空間なのかわからぬところに生え出た樹は、前自身が語るように「宇宙樹」(『歌壇』二〇〇四年十月号)のようなものとして時間、空間、物語をあらかじめ纏わない。鶸の飢えも、精神の飢えとして言葉と物語の不在に向けて呼びかけられている。そしてまた死者と混じりつつ生えている樹は、死とともに再生してゆく。そして命や心は「罪」という名の痛みを始まりとして脈打ち始める。ここでは全ての存在が光と影をもち、罪と福音の両方を聞いている。前は戦後の荒れ果てた言葉と精神の荒野にこのような存在の樹を植えることから始めた。これら詠われた木々の一本一本は、戦後の風に晒されながら言葉と文化と歴史の荒野に植林されていった。つまりそのように山はあらかじめ失われており、前はひとたびは否定された山の神話と物語と空間とを自らの存在の根拠として創り上げようとした。そのためにこそ山棲みを「刑」として自らに課したのだ。
そして半世紀を過ぎ『鳥總立』では次のように詠われる。
百合峠越え來しまひるどの地圖もその空をいまだに知らず
『鳥總立』
竹槍を投げてきにけり春がすみ記憶のめぐり包みたる日に
同
ゆつくりとあゆみこしかな病める木に手觸れしのちの痣消えず
同
自らが育て上げた木々の濃い緑は背後にたっぷりとありながら、しかしこの山人はなお夢の舳先をさらなる世界へと向けようとしている。日本中が薄く平べったく、物語と手触りを失って青ざめてゆく時、地図に書き得ぬ土地の奥行きと味わいとを思う。そしてまた、視野を濃く覆う霞のかなたに竹槍を投げずにはおれない。そしてまた、病んでゆく世界に立つ病む木には手を触れるはしから痣が記されてゆく。病む木の病む命と対話するほどにゆっくりとした歩みの自信がそこにはある。単なる自然崇拝や閑居ではない。戦いとしての山ごもり、言葉の根拠としての山の力の再生が前の仕事であった。もっと激しい戦いの痕跡は次のような歌により良く伺える。
萬緑の水の下降に叫ばむか丹塗矢となる魚を放ちて
『鳥總立』
つるりんだうのほとりに尿したまひしもののけ姫はすでに山姥
同
裏白にゆまりをなせる女神ゐて雪雲の縁朱く炎えをり
同
これらの歌を見ると前がいかに性に拘っているかがわかる。これらの歌はゆったりとした時間の中で飄逸さを獲得したり、おおらかで穏やかな自然愛撫へと変貌し展開しながらも、性を喜び言祝ぐことで一貫している。それは、山という場所が、性によって命を得るからに他ならない。前が言葉と精神の在処として籠もった山々はひとたびは戦後の荒れ野として性も奪われていたのだ。
夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ
『子午線の繭』
『子午線の繭』においてこのように詠われたとき、日本は明らかに永いインポテンスの時間に沈んでゆこうとしていた。山人であることを選んだ前は、林立する木々の萌え出ようとする気を纏い、山の力を背負って沈滞する村をゆさぶり犯そうとしたに違いない。悪事を犯す者のときめきと華やぎの力は性の力である。「盗賊」は女を盗むに違いないのである。そして同時にこの歌には、村よ起きよ、山を起きよ、という切ない悲鳴のようなものが籠もってもいたのだ。言葉の荒野と化した山々はこのような物語を仕掛けられることによって性の気を帯び、林立する木々は力を得ていったに違いない。性の力はちぎれた時間、戦前と戦後を繋ぎ、途切れた神話や物語に新しい時代の息吹を吹き込むために是非とも必要であった。
その祈りは今も魚を女神を犯すための「丹塗り矢」にせずにはおかない。そして蔓竜胆や裏白の葉に注がれた尿の気配にもののけ姫や女神を夢想させる。前にとって性の気配はいつも古代の生命力に溢れた奔放な神々の気配であり、山の命が凝縮されている徴なのである。そして今前が付け加えようとしているのは性を帯びた空間の大らかな奥行きである。もののけ姫が山姥になるのを許す豊かな時間は、おもちゃのように少女を追いかけては棄ててゆく現代の時間と根本的に異なっている。前が再生した吉野の山で、女達は好きなところに尿をし、茫々と年老いてなお愛されてやまないのだ。このような山の奥行きは次のような歌にも伺える。
八月の灼ける巖を見上ぐれば絶倫といふ明るき寂寥
『鳥總立』
性愛を蔑まざりし神々のつどへる秋の夕雲朱し
同
存在として永遠に「絶倫」である巌、その寂しさをみせる絶壁を前は自らの時間を背負って見つめる。そこには同朋への敬意のような感情や微かないたわりの情が添っている。前に過ぎた時間は巌にとっては何でもない。そうであれば年重ねた前が知ることをこの巌は知らぬかも知れぬ。前が再生した山の神話を自身が追い越してゆく。その寂しさと大らかな時間の受容がこの歌には感じられる。そして太古の時間に思いを馳せる二首目。神々こそ時には粗野なそしてまた実に磊落な性の創造者であった時代。そうした時代の神話は戦後の前にせっぱ詰まった力を与えたが、今は夕雲を灼く朱のような穏やかな豊かな表情を持つ。しかしここには大らかな性愛の力を失った現代が陰画として呼び出されているのだ。前は戦後の荒野に山の物語を復活し創造し、その山の豊かさから見える現代へのメッセージを刻む。
ふと見ればどの歌もみな肥大せるやくざな自我をもてあますらむ
『鳥總立』
水漬く屍 草生す屍 朝の地下ぎしぎしと人いづこに行くや
同
できるだけ文明の速度に遲れつつ生きて來しかど譽められもせず
同
私捜しなどという言葉ももう去ったのだろうか。薄っぺらな自我の幻想が生まれては消えてゆく現代に向けて一首目は痛烈な批判をしている。二首目の地下鉄の歌では再び戦争の気配へと動いてゆく人波を不気味に感じている。吉野の山という現代の異空間からありありと見える時代の危うさを前は率直に警告する。そして三首目の述懐には「譽め」られぬことへの誇りも滲む。「やくざな自我」など持て余すことの無かった古代からの時間の大河に棲む者にとって褒められ認められることなど小さなことだろう。しかしまた、文明の速度に抗うことにはあらかじめ大きな主張があって、前はそれなりの賭けをしてきたのだ。
帰るとはつひの処刑か谷間より湧きくる螢いくつ数へし
『子午線の繭』
花咲ける山に造りしまぼろしの牢ゆるやかにわれを入れしむ
『鳥總立』
前は山に「帰る」ことを幾たびか詠んできた。『子午線の繭』において「処刑」と呼ばれた山棲みの選択はおそらく大きなリスクを伴っていたに違いない。もし戦後刻々と流れる時間と太古からの山の時間を結ぶことに失敗すれば、山の時間に呑まれ、吉野という古典世界に奉仕するのみの虜となってしまったであろう。前の「帰る」山はそういう意味でも今に繋がる生命を持ちうるかどうか怪しく危険な世界だったのだ。しかし『鳥總立』において詠まれた「牢」のこの穏やかな表情はどうだろう。前は余裕を持って美しい牢に捕らわれようと言う。前は相克を重ねてきた山との和解をし、大きな調和を肯定しようとしている。そこには、あきらかに山との戦いに勝った自負が添っており、山の囚われ人となることが決して自らを損なうことのない境地が示されている。まるで山そのものとなりきったかのような大らかな開かれた境地であろう。
鳥總立せし祖父よ、木を伐りし切株に置けば王のみ首
『鳥總立』
鳥總立ことばの秀つ枝立つるなり、血を吸ふ虻を蜻蛉早咋ひ
同
「鳥總立」とは「伐採した樹木の再生を?つて、古來その樹の梢を切株に立てた」事だと言う。もしかすると前が戦後の荒野に山とその物語を再生できたのは祖父の行った鳥総立によるのかもしれぬ。前の出発は自身が「異常噴火」と呼ぶエネルギーのほとばしりであったが、言葉は根拠なく唐突に噴き出したのではなかった。長い時間を埋もれてきた導火線に火が点くように、祖父が捧げおいた祈りの導火線に前の言葉が触れたのだ。記憶の中に残る古い儀式が突然に意味を持つ、そんな瞬間があったに違いない。そして今、長い時間の中で次世代に向けて山の意味を記し置く儀式として前は鳥総立をしている。私達は記憶のどこかにこの儀式を残し、ある日、その意味の重さに気づくことがあるのではなかろうか。
真偽は確認できないままだが、鳥總立の儀式には、裏の意味として倭の鎮魂を願う大和の願いが込められているとも聞く。前が大和の人間として倭の王の首をそこに据えるなら、あるいは遠い日に征服された倭の裔であるかもしれぬ私は、いつの日か自らの物語を賭けて何かを応えてみたい。言葉とはそのような心と心の交差し、結びあい、ほぐれ、絡まり合う有機的な空間であるに違いない。そんな木霊し反響するような山の時間と物語の共有を前は切に求めている。鳥総立は、消えてはならない山の物語を次世代に向けて問う儀式に他ならない。前はここにこそ言葉の力はあると太い切り株に神の宿る枝を差し立てる。言葉と人の精神とはゆっくりと流れる時間の大河から無縁ではあり得ない。そことの対話無しの言葉がどんなに貧しく青ざめているかを私達はもう十分見て来たではないか。