小野茂樹論

— 戦後の光を求めて —

「NHK歌壇」05年1月号

 

 

 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ

 

 小野茂樹の名は知らなくてもこの歌だけは知っているという人も少なくないだろう。そのくらい愛され、読者の記憶に残り続けてきた彼の歌は、まずこのような愛唱性を入り口とし、時代を超えてどんな読者にも受け入れられる性格を持っていた。

 

 五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠き電話に弾むきみの声

 

 ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる

 

 感動を暗算し終へて風が吹くぼくを出てきみにきみを出てぼくに

 

 こうした歌からは、震えるような響きや言葉から言葉へと機敏に動く心の律動のようなものが感じられる。そして何より明るく温かい。彼自身論じられることよりも愛唱されることを望んでいたというが、彼の歌が忘れられないのは、そのような歌の性格を彼自身が愛していたことによるだろう。近代以降の短歌の流れを思うとき、愛唱性を個性としてそなえた歌人は意外に少なく、安らかに人々の口の端に乗り愛される歌というのは、むしろ非近代的であり忘れられた歌としてあったのではなかろうか。そのような近代以降の文学史を背景に、小野茂樹はじつに明朗に言葉を奏で、音楽としての歌を思い出させた。そうしたことも彼を忘れがたい歌人にしていよう。

 小野茂樹は、昭和十一年十二月に東京渋谷に生まれる。十七歳で文芸同好会を作り、短歌六百首を作っている。早い時期から青春の心動きを十分に表現しうる技巧を具えた早熟な少年であった。早稲田大学国文科に進んだ十九歳で結社誌「地中海」に参加。本格的に歌を始める。小野茂樹を代表する歌のいくつかはすでにこのような少年から青年への成長の過程で作られている。またこうした歌との出逢いは、後に妻となる青山雅子との出会いと別れとも重なっている。年譜によれば、小野は十五歳で父を亡くし、その頃から雅子を意中の人とするようになったらしい。しかし、彼が大学に進んだ十九歳の秋に雅子は他の人との結婚を決意、以後長い失意が始まる。二十七歳の時コーラスグループで出逢った女性と結婚するが、翌年には別居。ちょうどこの頃雅子が離婚する。小野も離婚し、そして翌年雅子と結婚することになるのである。第一歌集である『羊雲離散』は、縦糸としてこの恋と別れ、そして再会というドラマをもっている。この劇的なドラマは彼の人気をいやが上にも高めることになった。冒頭に掲げた一首は、紆余曲折を経て果たした雅子との再会を背景としている。幾重にも反射しつつ届く光のように複雑な、しかし透明度の高い愛が歌い込まれている。この歌と並んでつぎのような歌もこの再会を歌って記憶に残る歌である。

 

 かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も

 

 下の句は、長い時間を経て手に入れた愛の確かな手応えを十分に伝えている。しかし、同時に小野の歌を読み弱りさせないのは上の句の細やかな描写によることも見逃されてはならない。冬の日差しの微かな温かさと明るさの把握と丁寧に選ばれた言葉が下の句を支えている。小野の歌にはこのように細やかな神経が感じられる歌が多く、大らかで率直な心情と繊細で注意深い言葉とがさながら室内楽のように一首一首の歌を完成させている。小野は『羊雲離散』の覚え書きで次のように語っている。

 ぼくは短歌に自己抑制を課しすぎているかもしれぬ。表現における際のリズムは、増幅器とならずに整流器としてはたらいていることが多く、一首一首を断絶し、それぞれ孤立している。しかし、日常会話の一節でさえ完結しがたい日々に、何ごとかを言いおえる世界がどこかにあっていい。その意味でぼくが短歌に求めるのは、みずからに断念を強いる明快な仮説である。


 この整流器としての短歌というコメントは彼の短歌を語るキイワードとなってきた。小野が本格的に創作活動をするようになった昭和三十年代は前衛短歌運動が盛んだった時代だ。新しい短歌を求めて破調などによる韻律の冒険や、イメージのアクロバットがしきりに試みられていた。そうした動きの中での小野の整流器説は、短歌がむしろ多くを言わない詩型であることを言い、シンプルなゆえに強靱でもある性質を探り当ててもいた。この論は彼自身の歌を語る以上に、もう一つの短歌の可能性を示唆してもいた。

 

 わが肩に頬をうづむるひとあれば肩は木々濃き峠のごとし

 

 くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

 

 いちにんのため閉さずおくドアの内ことごとく灯しわれは待てるを

 

 またこのように風景の陰影に託された心情の機微はじつに繊細であり、また音楽を伴っている。向日性を感じさせる初期の明るい歌で光を手に入れ、またこのように細やかな子心の陰影を表現させたものは、人間に対して柔らかく開かれた心であった。同時に自らの裡の声を探るような深い内省が言葉を支えてもいた。次のような歌にはそれが伺えよう。

 

 非力のとき誠実といふこと卑し月を過ぎゆく羊歯状の雲

 

 核家族化が進み始め、人と人とが疎遠になってゆく社会が進行し始めた当時の状況の中での小野の歌について佐佐木幸綱は、「こういう状況の中で窒息しかけた人間の祈りのようなもの、それが小野の『灯』であったのではなかったか」(「灯の思想を確立せよ」)と述べている。「ことごとく灯し」と表現された「灯」は相聞歌の形をしつつ時代に対して掲げられたアンチテーゼであったかもしれない。小野は『羊雲離散』によって、現代歌人協会賞を受けるが、その選考過程では歌のみならず彼の人柄も愛されたという。多くの歌人が彼の周りに集い、その人柄もろともに愛された出発であった。

 しかし、彼自身が纏めたのはこの歌集のみとなった。第一歌集上梓から間もない昭和四十五年五月、小野は交通事故により三十四歳の若さで急逝する。前年に長女綾子を得、出版社での仕事も繁忙を極め、もっとも充実した時を迎えたばかりの急逝だった。彼の死後纏められた第二歌集『黄金記憶』の中に次のような歌がある。

 

 くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

 

 この歌はまるで彼が自身の死を予感したかのようだと語られ、代表歌のひとつとなった。命のさなかに死の気配を感じ取るような下の句は忘れがたいが、この歌に命を与えているのはむしろ上の句の細やかな描写である。草むらに日が射すとき、ともに影がそこに差し込んでいる。明るさが必ず翳りを伴うことを些細な観察によって彼は見ている。その眼差しの静かな力が印象に残るのだ。しかしこの歌に限らず、『黄金記憶』の中に死に関わる歌は少なくない。

 

 母は死をわれは異る死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ

 

 翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 

 見えはじめすき透りはじめ少年は疑ひもなく死にはじめたり

 

 『羊雲離散』を纏めたとき、小野は相聞歌が想像以上に多いことに驚いたというが、もし彼自身が『黄金記憶』を纏めていたなら死を意識した歌が多いことに驚いたかも知れない。これらの歌には死に寄り添うような命の光が感じ取られており、死を歌いながら透明感と明るさとがある。久我田鶴子は『雲の製法』の中で「死の意識を背後に負いながら、耐えて生きようとする姿勢」とこれを評する。こうした批評の背景には、『羊雲離散』を出した後、小野が戦争体験を意識して呼び出していることがある。タイトルとなった「黄金記憶」の一連では学童疎開の体験が歌われる。

 

 殷々と夜空を迫るとどろきに死すべきたれかまた選ばれし

 

 こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

 

 九歳で長野県に集団疎開した体験を持つ小野は、自らも栄養失調状態で帰京した。小野は早い時期に死を間近に見、たまたま「死すべきたれか」として「選ば」れなかったにすぎないという感覚を刻印されていた。このことは、作歌に少なからぬ影響を与えているだろう。

 しかし、体験は必要によってこそ呼び出されるものに他ならない。戦後の健康さ、明るさを象徴するような彼の歌の方向は、そのままで十分一つの方向性を持っていたおり、戦争体験に拘る必要はなかったはずだ。それにも関わらず彼がこの体験を歌うことを必要としたのは、彼自身の言葉が死を潜ることを欲していたからだ。早熟であった歌人は、彼が意識せず掴み得た光を咀嚼し、掴み直すために影を必要とした。そのとき最も強いコントラストを成して命の光を意識させるものが死であった。そんな風に読み直せないだろうか。『黄金記憶』の中でとりわけ印象的な一連「ホットケーキ」論の中に次のような歌がある。

 

 蜜したたるケーキのかけら耐へきたる不在の遠き飢ゑ満たすべし

 

 小野は、戦争の影を潜って光を掴み直すべく言葉を与えられたのだと自らを意識していたのではあるまいか。その意味では小野が歌ったのは死の予感というより、死を潜った光のようなものであった。それゆえ彼の歌には一途に光を掴もうとする祈りのような敬虔さがある。その光と向日性こそが小野茂樹を戦後短歌史のなかで忘れ得ぬ歌人としているのではあるまいか。