水原紫苑論

— われは「ささげもの」 —

「中部短歌」03年3月号

 

水原紫苑歌集『いろせ』書評

 川端康成によって描かれた少女達、女達はことごとく空虚である。コケティッシュに振る舞う彼女らの笑みは、女である私にとって何か惨いもののように見える。描かれることによって言葉と魂を奪われ立ちすくむ少女達。物思うことを禁じられ、いつまでも若いままでいるほかない人形のような女達。生身であることを許されぬ女達は、「人生」も「時間」も「内面」も持たない。散文は彼女たちを風景のように描写はするが、決してその物思いに踏み込んで人間としての輪郭を書かない。川端に限らずほぼ全ての男達は女を描くことの本質に籠もるこの惨さに気づこうとしない。幻想の範囲を決して出ないようにすること、そこに運命づけることが女を描くことだとは川端はついに気づかなかった。そして今日なお多くの男達は気づいていない。

 しかし、描かれる立場にあった女達は実にさまざまなルートを見つけだし今度は表現する主体となって現代へと逃れ出てきた。水原紫苑はそのなかでも実に思いがけない方法で現代へと逃亡してきた一人だ。私が水原の歌にイメージするのは、川端の描いた無言の少女が言葉と魂とを得た姿だ。魂と言葉とを持たぬように描かれ続けたことの口惜しさ、散文によって人形であれと呪縛され続けてきたことの口惜しさを、少女の姿のまま韻文によって訴えるかのようだと私は思う。それは、描かれ続けた女の姿を借りて「この空虚を見よ」と男達に突きつける怨嗟を秘めている。

 

 ふたたびを狂女と生れてなげくかな笹のみどりもわがものならぬ

 

 投げ果てしこころを拾ふ春の谷かやのさいゐん裸身にいます

 

 これらの歌の基になっているのは男達が飽くなく描いてきた女の姿だ。狂女、裸身の貴婦人。文学的には描かれ尽くしたこれらの女達は水原によってふたたび呼び出される。「笹のみどりもわがものならぬ」と何一つ吾がものではない世界を嘆き、美のために禁じられてきた「投げ果てしこころを拾う」ために。 しかしその心こそすでに虚ろであり、あとには美のほか残ってはいない。女達は、美麗な額縁に納められた絵を抜け出して、私たちは空虚だ、と訴えかけるためにのみ現れている。女達はふたたび空虚のうちに埋葬されるのに、その訴えは微かな悲しみや痛みの音韻を生みその余韻を残すのだ。

 水原がこれらの女達を借り、または女たちそのものとなって言葉を紡ぐとき、散文によって封じ込められてきた何かが韻文によって解かれる。散文では空虚であるもの、つまりは語りや意味にはならないものが韻文の世界では別の命を持ち、自由に生き始めることを水原はずいぶん早くから知っていたのだ。散文によって封じ込められてきたものたちが縛めを解かれ、吐息や嘆きとともに生き直す世界、それは同時に散文の文脈を統べる意味からの離脱である。

 

 さくらさくら過去売りしわたくしを下草のごと照らすひかりよ

 

 滝波の華厳世界にきらきらとわれを殺しし父母います

 

 これらの歌では、「さくらさくら」の響きや「下草」の色合いに、また「華厳の滝」の美しさが全てであり、意味は遠く退いている。韻文の器の中で言葉が命を得るとき、言葉はひとたび散文脈での意味を捨てることで生きる。水原の言葉を統べるのは、その果てに現れる空虚への飽くなき希求であり、美によってのみ自立する言葉の強さへの憧れではなかろうか。

 実は私は長い間どうもうまく水原が読めなかった。ときにはポストモダンな言葉の旗手として、あるいは葛原妙子の後継として、その作風はどのようにでも語り位置づけることができるだろう。しかし、なにか本質的なものを読み逃がしている気がしてならなかった。言葉の美の伽藍、虚空へ向けられるしんと冷えた情熱。張りつめた美意識。それらを歌集が出るたびに感嘆して眺めるのだが、ではそれが一体何なのかどこかもどかしいところで力及ばない気がしてきた。水原の歌が祈りのようだと感じつつ、しかし何に向けた祈りなのかが理解できなかったというべきだろうか。しかし、今回の歌集で私はその祈りについて語り、その質に少し触れることを許されたように思うのだ。

 

 ハイビスカス髪に飾りて平和祈念公園に立つささげものわれは

 

 「首里の坂道」は、旅行詠の輪郭を持った一連で、叔父が沖縄戦で戦死した事などこれまでにない作者の背景が語られている。水原には珍しいそうした告白は抽象的な世界にヒントを与え、一見分かりやすく感じさせる。だがそうした私的背景は、美への殉教者のようでさえある水原の歩みに照らすとき異質で、かえって難解でさえある。沖縄は現代日本史にとって象徴的な存在であり、生半可な情緒や言葉を受け付けない過去と現在とを背負わされている。現実から遙かな距離を置き続けてきた水原にとってこの濃厚な現実の磁場がどのような意味を持つのか。方法を間違えれば危険きわまりないテーマに身を晒しながら、しかし私はここに水原の輪郭が鮮やかに示されていると思う。

 ハイビスカスを髪に飾ったこの生け贄は空虚で美しい。死者への冒涜寸前のこのポーズは、∧私∨が狂女であるから許される。水原は狂女の身を借りて、かつて描かれなかった沖縄の悲しみを引き出している。沖縄と向き合うとき際だつこの狂女の美と空虚は翻って沖縄の悲の何たるかを炙り出す。死ななければならなかった人々も、今日沖縄が背負わされている苦もなにか巨大な虚に操られているのではないか。死者は何のために死んだのか、空虚のために。そうであるからこそ哀しいとこの狂女の美が訴えるのだ。虚であるゆえの悲劇の中心に突っ立ってこの狂女は∧ささげもの∨となるのだ。

 「ささげもの」、つまり生け贄は、神聖であり選ばれたものである。しかし、視点を変えるときそれは、生身であることを許されず美しい空虚として共同体を守るためにその外に遺棄される存在でもある。水原は自らをまさにそのような存在として位置づけているのではないか。あくまでも美しい空虚でありつづけることの凄さは、水原が敬愛する歌右衛門の凄さにも通う。空虚であればあるほど現実を、そして散文的世界の創り上げてきた意味の空しさを炙り出すのだ。

 このようにも言えるのではないか。水原は、空虚として描かれ続けてきた女という表象、まさにその表象そのものになりきることによって、文化が、散文が創り上げてきた女の意味を問うているのだと。男達の描く文化としての「女」、その虚しさの写し絵、リフレクションとして立つとき、あるいは最も強く文化は糾弾されるかも知れない。その意味でまさに水原は「ささげもの」なのだ。