「歌壇」2002年7月号
穂村弘の文体を語るのに少女言葉の問題は避けて通れない。初期穂村の世界の少女は対話のなかに生きていた。そして現在、穂村の歌はこの少女言葉に語りの全てを預けている。短歌は主題を選んでから文体が決まるより、文体が自ずと主題を選ぶことが多いのではないだろうか。
穂村の場合、典型的にこの少女言葉が少女という主題を選び、創造し、さらには少女の発想が穂村を代弁するという過程を辿っている。それではこの少女言葉とは何なのか?その働きを詳しく見てみよう。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
『シンジケート』
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
「クローバーが摘まれるように眠りかけたときにどこかがピクッとしない?」
一首目。体温計を銜えているため、「雪だ」が「ゆひら」になってしまう。この奇妙な音と化した言葉は、二人の会話の親密さを表現する。それと共に、「雪だ」より閉じた言葉として二人の親密さのなかに読者を引き込む働きもしている。ここでは準備よく「ゆひら」を「雪のことかよ」と言い直すダイアローグが添えられていることに注目したい。これは明らかに男言葉であり、ここでは少女の興奮を面白がりつつ読者に説明する大人の言葉として働いている。二人の関係の親密さへ内向してゆく少女言葉と、冷静さと広がりを備えた男言葉、この組み合わせが歌をリズミカルにし、二人の世界を外の世界へ向けてアピールしている。さらに、少女の姿を描く上の句の映像が鮮明であり、この会話の輪郭となっている。
二首目では背景が消え、二人の会話だけで一首が成立している。ここでは大人びた不安を向ける少女に対して、それをはぐらかしてみせる男の子という組み合わせである。歌の核となる不安は少女が代弁し、それをポップな無意味へと爆発させる役割を男の子が担っている。このダイアローグは表現の上で一首目に比較するとやや孤独の色が濃いのではなかろうか。二人の会話の親密で深刻なズレは、その親密さのまま背景を欠いているからだ。この孤独な感じがこの歌の読みどころだろう。
三首目は少女の言葉だけとなっている。ベッドルームでの睦言を思わせる言葉は、相変わらず二人の親密さを暗示するが、男の子の姿は消え、モノローグとなっている。この少女の言葉は闇に消えてゆく。体の感覚についてのお喋りが最後の言葉であるかのように消えてゆき、応えのない世界に漂ってゆく。しかし、ここでは少女の言葉は「」に囲われており、少女自身の言葉としての輪郭を保っている。
最新歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』でまず気づいたのは、この「」が無くなっていることだ。代わりに「まみ」という名前が現れる。
ティーバッグ破れていたわ、きらきらと、みんながまみをおいてってしまう
さようなら。人が通るとピンポンって鳴りだすようなとこはもう嫌
早く速く生きてるうちに愛という言葉を使ってみたい、焦るわ
これらの歌はみな「まみ」という少女の語りである。しかし固有な名前とは反対にその語りは今を生きる若者一般の哀しみや切なさの代弁となっている。応答のない会話の投げ出されて行く先は共感か無反応のどちらかだろう。ダイアローグであることを止めたとき、穂村と少女とは一体化し、作者の本音は「まみ」に託されたのだ。消えた少年の代わりに読者の共感が少女の独白を取り巻いている。これは孤独な風景なのか、親和に満ちた風景なのか?
少女言葉の魅力を引き出せるのは少女自身ではない。少女を創造する作者、多くは男性作家によってである。男性、つまり穂村は少女像を切実に欲し、少女言葉によって語りかけることを必要としている。その切実さが少女の語りを洗練された緊張感のあるものにしているのだ。それではなぜ少女でなければならないのか?
答えはたぶん、少女だけがこの世界のなかで多くを免罪されている(と穂村が信じる)からだ。この世界とは男によって形作られた言葉の世界、既成の行き詰まった言葉の世界のことである。穂村は、絶壁で器用にバランスをとってみせる身軽な少女を必要とし、男言葉の秩序の中を自在に泳ぐ最後の言葉として少女言葉を選んでいる。それは翻って、今、大人の男として語ることの困難を証してもいる。