木俣修論

— 押し返す言葉 —

「短歌」99.9

 

 木俣修は極めてバランスのとれた精緻な言語感覚を持っていた歌人のひとりである。しかし、時折その精緻からはみ出す言葉があってそれが意外な魅力となっていることが少なくない。

 

 傾きつつ青バスひとつ曲りくる汝をうばひてゆかん夜のバス

 『市路の果』

 着のびせし洋服を釘吊りにしたる壁なげかすらんか母が見みまさば

 

 ともに第一歌集『市路の果』中の歌である。一首目は恋人との別れの場面。二首目は家を出て一人暮しを始めた時期を背景としている。一首目の上の句は実に印象的だ。私などは思わず「となりのトトロ」に出てくる猫バスを連想してしまうほどだが、バスがカーブを曲がって現れる様子が動画のように生き生きと表現されている。<青バス>という言葉が当時一般的にあったのかどうか、恋人を連れ去るバスをこう呼んでその気分を伝える。特に面白いのは初句の<傾きつつ>であろう。いきなりこの言葉で始まる描写はあらゆる風景のなかからバスを際立たせ、それ自体が意思を持つかのようだ。

 二首目の歌も<着のび><釘吊り>が印象的で、たとえば<着古し>や<釘に吊したる>では決して生まれなかったであろう言葉の瘤となって侘しげな洋服の存在感を強調している。

 これらの歌に見える言葉の好みは、磨かれた隙のない表現に散見される。奇抜というほどではないが、こうした言葉を選び出す作者の体温が感じられ、嗜好がせり出す。わずかに奇妙であり、そこにはなにかしら有機的、人間的な好みが感じられる。木俣のこうした言葉が時代の中でどのような役割を果たしたのか、というより彼自身をどのようなところへ導いたのか、私にはそのことに興味がある。

 

1 

たとえば私が木俣の代表歌として記憶している次の歌にもかすかな奇妙が覗く。

 

 幼子は鮭のはらごのひと粒をまなこつむりて呑みくだしたり

 『冬暦』

 

 幼子がおそらく初めて口にしたであろう鮭の卵は、私たちが珍味とする食品以前の何かだろう。目を閉じておそるおそる呑みこんだものはひとつの命である。幼い命が一粒の命を飲みこむ大切な場面がここには描かれている。このときかなりの熱意で据えられていると感じさせる言葉が<呑みくだしたり>だ。この歌は、映画で言えばかなりのロングショット。結句まで句切れなしで続くゆっくりとした音韻、長々とした描写は幼子の様子をつぶさに捉えて離さない。そうした執着を特に印象付けることになるのがこの結句だ。

 この歌の収められている、『冬暦』は、昭和二十一年秋から翌年夏までの間の作品からなる。窮乏激しかった戦後の生活を背景としている。食物も命もふたつながらことさらにいとおしむ気持ちがこの歌に集約されたとしても不思議ではない。しかし、この歌から感じられるある種の執拗さは、子供への愛、命への愛惜をわずかに超えているように思われてならない。いままさに鮭の胎子を飲み下そうという子供ののどの動きまでもを視線でなぞるかのような木俣は、そうした命に言葉で潜入することによって生き直そうとするかのようでさえある。

 吉野昌夫は「作家にはいつの時代にも自己の内面だけをせめてわきめもふらない作家と、時代の中に素直に生きむしろ時代とのぶつかり合いの中で作品を生んでゆく作家とがあるが、木俣はその後者に属する。木俣は、変動激しい昭和の時代をもっとも素直に感動し激昂し、悲しんで生きてきた一人であることはいままでひいた作品からも理解されよう」(『短歌研究』昭和三十九年五月号)と評している。トータルな作家像としての木俣修を語って適切な解説だろう。時代に対して開かれ、人事に対して親密であり積極的、そんな印象は作品から容易に汲み取れる。また上田三四二は「多感で能動的な熱塊のようなもの」(『短歌』昭和五十七年二月号)を胸のうちに宿していると評したが、実はその<熱塊のようなもの>は言葉に宿ってその初期から晩年までを通底している。初期作品に見られる初期白秋の影響や、第二芸術論を背景に戦後世界を描く強い筆致、晩年の自らを晒しきった日常詠など折々に木俣は変化しているが、最も芯となる部分はほとんど変化していないのではないか。人間や時代に対して一途である点がそのひとつだが、しかし、そうでありながらプロレタリア短歌のような方向と距離を置くことになったのは、その生活嗜好によるほかに、木俣の言葉に備わっている<熱塊>が実は時代や思想などとはまったく別の方向を向いていたからだと思える。

 同じく『冬暦』のなかの作品。

 

 憲兵隊のあととし言へり土のうへに冬のキャベツははじけてゐたり

 

 戦後の風景への鋭い視線の届いた歌だが、冬のキャベツのはじけるほどの勢いを印象強くしているのは<あととし言へり>の伝聞形である。自分で直接に憲兵隊の跡であったと断定することによって、戦後風景の構図はくきやかになりすぎよう。そこを避けるための伝聞形と言えなくもないが、作者の目はキャベツの勢いに釘付けになったままそこが憲兵隊の跡であったなどという話を耳に入れているのだ。結果としてこの<言へり>は微妙なくぐもりを生んでキャベツの勢いとの対比を深め、戦後風景のステレオタイプを逃れたインパクトを生んでいる。非常に計算された歌であり、戦後の風景を描いて微妙な陰影を描く作品でありながら同時に、そこにキャベツを楽しむ作者の無邪気が滲むのだ。

 木俣の歌に時折見える奇妙さとは、このようにしばしば驚くほどまっすぐに率直に対象への好奇心や心寄せが言葉になることによる。和歌の伝統を消化した洗練された語法や学者らしい生真面目な描写とこのような直接に対象への心寄せの働いた言葉とが混在し同居するからいっそう目を引く。いくつかを拾ってみよう。

 

 わが敵を意識する夜は網膜にその形相のうろつきまはる

 『市路の果』

 起ちても濤かがみても濤どうしやうもなくて見てゐる高志の高濤

『呼べば谺』

 氷りたる水泥かかぶり年を越す泥鰌を思ふ池の辺に来て

 『愛染無限』

 夕茜眉間にうけて佇つ妻も離れゆきし子を思ふなるべし

 『雪前雪後』

 寝ねんとして外す入歯は怪のものかたましひもたぬ銀ひかる

 

 一首めは<うろつきまはる>が目に飛び込んでくる。眠る前の物思いに気になるライバルの顔が浮かんで消えないということだろうが、この感情剥き出しの表現が歌に生気を与えていることは確かだ。これは俗語をそのまま取り入れた勢いが日常的な物思いの呼吸に合うからだろう。言葉に対する好奇心が息づいている歌として印象的だ。

 二首目も口語の勢いが歌に生気を与えている。<どうしやうもなくて>とはこれほど世界に対して開放しきった感情はない。その気分を日常の口語が伝える。それぞれの気分に応じて自在に言葉を取り込む柔軟さは木俣の精神の活気を感じさせるとともに言葉自体に対する好奇心の現れとしても読める。

 そして三首目以降の歌は対象に対する心寄せが強く言葉に反映している歌である。<氷りたる水泥かかぶり年を越す>と年越しの心配をされているのは泥鰌である。泥鰌にとっては当たり前の冬、しかし、<氷りたる水泥>と表現されるとさすがに冷たいだろうなあと気持ちも動き、さらにそれを<かぶり>と描写されると冷たい煎餅布団を引きかぶって年を越す哀れな誰かの姿が浮かんでくる。この泥鰌の擬人化は言ってみれば言葉だけの世界である。しかしそれゆえに木俣の言葉選びの面白さがよく見え、しばしば子供に対してそうであるような構えのない心寄せが言葉に細やかに反映している。

 また、次の歌では<眉間>が実に印象的だ。離れ住む子供を案じる母親の風情として、この眉間はほかのどの体の部位よりも効果的だ。子を案じるのは父親の自分もであるが、妻の眉間の憂いはそれよりはるかに深く複雑な物思いが集まっているという気づきの歌として読める。しかし、眉間に夕日を受けるという風景のインパクトは作者の意図よりやや強くわずかに過剰ではないか。妻の眉間、このもっとも繊細な神経の集まる身体部分は離れ住む子供を愁うよりはるかに精神的神経的な感じを読者に与える。つい見てしまい気になってしまったものへの強い心寄せが生んだ誤算かもしれない。しかし読者は計算どおりのものに興味はもてないのであり、この過剰に私は木俣の言語感覚の豊かさを感じる。

 そして最後の歌は晩年の木俣の視線をよく伝える一首だ。入歯が歌になるという素材を選ばぬ解けた姿勢と同時に、あるとき興味を持った日常の物が興味を持たれることによって<怪のもの>になる過程が面白い。入歯などを歌にするということへの構えがなく、木俣がその初期から持っている事物への関心が素直に発揮された歌であろう。その驚くほどの率直さが旨味となっている。例えば初期作品に見えた<傾きつつ>やってくる<青バス>や、<釘吊り>にした<着のび>した洋服などと通じる、そこにやや過剰な好奇心が息づいていることによって生まれる独特の言葉の味わいと言えよう。

 

3 

木俣はその歌論集のなかで、次のように語っている。

 

「短歌は作者自身の生活を離れては成り立たない文学である。(中略)この自分でなければ解らない『自分の生活』の探求の中から生まれて来る短歌が、ほんものであり、つねに新しい光をもっているものである。たとえそれが刹那的な感動として出てきても、あるいは断片的な感情として発せられても、ともかく今日に生きているわれわれ一人の人間のいのちの真実を生々と伝えてさえいれば、それは立派に今日の文学として通用するものである」(『人間と短歌』昭和三十一年刊)

 

 素朴と言えばこの上なく素朴な文学論である。木俣は、雑誌『八雲』の編集に関わり、先鋭な短歌否定論が発表されるなかで短歌作品を依頼する仕事に携わるという経験をしている。直接に間接に短歌の価値と役割についての答を出さねばならない立場にいたことになる。最前線で短歌俳句否定論を浴びてきた作者にしてこの素朴さは何だろう、とも思う。しかし、一方で短歌という詩形をよく知る作者としての発言だとも感じさせる。全力で否定論を押し返すべく湛えた力と、くぐもった情熱とを滲ませる論でもある。同時にここには木俣自身の言葉への嗜好が語らせた短歌観が見えるようにも思うのだ。

 木俣は、抽象や思想への飛躍を拒み、自分の生活に即した短歌を一貫して唱えている。木俣のこの姿勢は、今ここにあるということを確認し、つぶさに目前の命を見つめる。それは、妻や子の死を詠んでも揺らぐことのないものだ。この感覚はつまるところ人間を含むあらゆる外界に対して働く種類のものであったろう。ともあれ現実を見、把握し描写すること。木俣の言葉はこのような時もっとも能動的に働き、時折過剰さえ生んで事物の芯に眠る生命の質を探り当てる。『冬暦』の後書きに「きびしい現実との対決なくして歌を生かして行く道はもうないだらう。そしてその対決にまで自らを駆り立てるべき主体の確立なくして歌人といふものはもう成りたたないであらう」と記された危機感は、例えば先のキャベツの生命感に反映し、鮭の卵を飲み込もうとする幼子への強い視線となっている。つまり、木俣の言う現実との対決とはより生命感に溢れ生の陰影に富んだ現実の再生と発見に他ならなかったのではないかと思うのだ。

 

4 

例えばこんな歌がある。

 

 冬潮をつきて祖国を指す船にひしめくいのちいたましきかも

 『流砂』

 

 戦後の引き上げ船の風景であろう。びっしりと疲れた人々が乗った船が祖国を指してくる。この歌がじつに木俣らしいのは、船に乗る言いがたい失望や疲れの嚢となった人々に対して<いのち>と呼びかけているところだろう。<祖国>が冬潮のかなたに茫洋としているのに対してこの<いのち>は声を潜めながらもびっしりとした存在感がある。<いのち>はすべてが壊れ無力となった人々を無垢に返す呼びかけである。木俣の歌は常に時代と事物の原点的な存在感との間を結んで造られ、そこには思想性や抽象性が介在しない。例えば寺山修司が<マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや>と歌ったとき鮮やかに起ち現れる<祖国>の相対化の視線がここにはない。

 視線は時代に翻弄された<いのち>の輪郭を見つめて<祖国>を問う方向には向いていないと言えよう。

 この作歌姿勢は<ここ>以外の世界を現実の向こうに夢想させる思想性や抽象性とはあらかじめ方向を違えるものだ。新しい思想を盛り込み、新しい表現に短歌の命運を賭けようとする立場から見ると好奇心が小ぶりで保守的であったに違いない。あくまでも生活人の視線を離れず具体性を砦とすることが短歌という形式に合っているという自信。このようにあくまでも現実に執着し命を歌った彼の掲げた<人間主義>は、主題としてはわかりやすいものだが、表現にとって何であったろうか。

 家族の悲運を乗り越え、戦火を潜って来た者の人間賛歌としてごく素朴に理解されるだけではすまないなにかが歌の力となっていることは確かだ。名づけがたい主情主義と呼んでもいい純な心動きは普通ならそのまま作者を時代の波に沈めかねない類のものだ。しかし、これまで読んできた歌に見えるある種の過剰や奇妙さは、癖や味わいとして以上に木俣修の体臭を感じさせてくれる。その初期において言いまわしへのこだわりであり好奇心であったものが、晩年の作品では剥き出しの老いの視線として展開し、自らの命を見せる歌へと変化している。

 もう一度<幼子は鮭のはらごのひと粒をまなこつむりて呑みくだしたり>に戻るなら、この歌の存在感は視線での命への執着とともに、この歌にひらがなが多用され、やんわりと新しさを迫る時代を受け入れ押し返すかのような<引き>があることがもうひとつの要因だろう。木俣自身が<ヒューマン・ドキュメント>と呼んだ人間模様は時代を受け止める人間像であり、やわらかに引くことによってやがて時代を押し返す言葉によって綴られている。冒頭に挙げた歌に見えるある種の過剰や奇妙さはその<引き>のゆとりのひとつだと言えよう。初期から晩年に至るまでそれによって時代の奔流から攫われることを避け得たたっぷりとした錘の一部にも見えて立ち止まるのだ。