松平盟子論

— エンターテイメントを着る裸形 —

「プチ☆モンド」

 

『カフェの木椅子が軋むまま』書評

 フランスから帰国直後の松平盟子とあるパーティーの会場で会って驚いた。最初は本人だと気がつかないくらい松平が変わっていたからだ。正確には松平の纏っている雰囲気が変わっていたからであって、顔かたちや姿が変わっていたわけではない(あたりまえだけど)。あのときの雰囲気を何と言えばいいのか、もあもあと水平に繁茂する照葉樹林にはえ出た針葉樹、うまい例えではないが何かそんな風情だった。

 異国で暮らすとき、意識的に、あるいは無意識に自分の輪郭を求める。それは外部から強制されて形作る殻のようなものである以上に、自分の内部からこみ上げてくる自分を知りたいと言う思い、また切実に自分が何ものであるかを求めるエネルギーが発する気配のようなものである。なべてが穏やかであり染みこむようにニュアンスに翻訳されてゆく言葉の世界、それが日本でありあのパーティー会場であったとすれば、松平は明らかにそれとは異質なエネルギーを湛えていた。私の経験に引き寄せるなら、たぶん怒りに近かったのではなかっただろうか。不遜はどれほど承知していても、日本では行き場のないエネルギーが充満し、居ても立ってもいられないのだ。フランスでの一年が充実したものであったことがわかったし、同時にそこにはあるいは恋愛のオーラにちかいものがあった気がする。

 

 今われは激しきものに囚わるるトリュフに溺れかけて殺して

 

 太ももが左右がっしと前に出てパリの舗道をどこまでも踏みし

 

 永井荷風よろけつつ渡るミラボー橋帰国拒否症候群ケフシノビガタシ

 

 これらの歌は歌集の後半に収められている。日本で作られたものも含めて、松平がパリでの生活を消化し、十分にエネルギーにしている歌だ。

 一首めは一見美食がテーマになっているようだが、それをはみ出すエネルギーがある。松平独特のコケティッシュな旨みの加わった美食のデカダンなのだが、実のところこの歌に噴出する激しさの源にあるのはパリへの恋慕の情ではないか。二首めの逞しさもなにか非常に健康なエロティシズムを感じさせる。パリを歩き尽くすエネルギーの源に、エロスが働いていないとどうして言えよう。三首めは、荷風のパリ思慕を借りて自らを吐露しているのである。荷風のそれには近代人としての忸怩とした痛みが滲むが、松平の場合のパリ思慕はもうすこしまっすぐである。覆い被さるような重く切ない日本の影が荷風を覆っていたものだとすれば、松平のそれにはより自在で闊達なそれゆえに痛みであるような恋慕がある。

 前半部分に色濃い輪郭鮮やかな生活絵巻、例えば

 

 片腕にぶらさがる重き透明よパリの空のした水を買う日々

 

 日本語で考えながら仏語読むカフェの木椅子がやや軋むまま

 

 スプーンにメロンすくえば遙かなる東京の雲ひとつ消えたり

 

のような歌に見えるのは、もうすこしメロウな初期の旅情である。あるいは部分としてのパリが、物のくまぐまに反映し形を持ち始めている。一首めの持ち帰る水の瓶にこもるのはこれからを暮らす異境の自由と危うさの重みであろう。二首めは言葉に発した違和感をが木椅子の軋みにより象徴的に託されている。こうした違和と不安と期待の混在の内に、断片としてのパリが実感されてゆく。そうして三首めのように異境のメロンの舌触り、色合いが東京の雲を押しやってゆく。後半にゆくにしたがってより全体としてのパリが視野に入ってくるのであり、部分から全体へ、パリはしだいに人格を帯びてゆくかのようだ。また、それに伴って旅情が恋慕へと深まってゆくことも見逃せない。

 松平は、エンターテナーとしての華やかな顔と身を晒して現代に体当たりしてゆく前線の作者という二つの顔を持っている。この歌集は比較すれば松平のエンターテナーとしての華やかさと艶とが全面に出た歌集だろう。海外詠としての問いを歌で突き詰めると言うのではなく、パリのきりりとした華やかな空気の中にある一人の女性の表情と生活の気配が描かれる。一冊を通じてエンターテイメントの壺を心得た鮮やかさのうちに、パリへの恋慕の切なさが立ち上がってくる。

 しかし、このエンターテイメントの装いをより注意深く見るなら、それが実に寂しい裸形を覆う綺羅であるかが見えてくるのだ。

 

 水面という一枚の境界に常にふれつつ水鳥の生

 

 この歌は水圏と気圏とその両方に常に触れながら生きる存在としての水鳥が見直されている。水圏の滴をしたたらせながら気圏へと飛び立ってゆく水鳥の際やかな輪郭、あるいは水面に浮かんで水圏のものでなく気圏のものでもない存在としての水鳥は、境界と常に接することによって己であり得ている。異境にあって自分の輪郭をひりひりと感じる松平の内省がこのような古典的でシンプルな水鳥の像を呼び起こす。

 膨大な新しい言葉、膨大な好奇心の対象、そして膨大な素材、それらの底にこの歌はしんと沈んで松平の位置を明瞭に告げているようで気になった。もちろんこの歌は異境にある人間、ことにも国境を知らない日本人の目に映ったヨーロッパの人々の生活のありさまだとも言える。しかし、水圏と気圏の境である水面に身を置く水鳥のさまは、ぎりぎりまでエンターテイメントに身を晒しつつそこで自らの輪郭を見いだす松平の作者像としても見えてくる。松平に対して俗であるという批判は批判としてのポイントを外れていることはすでにいくつかの歌集の重なりの内に了解されているだろう。そこをもうすこし突き詰めると、松平は俗中の俗の中に自らを突き出すこと、そこに起こるさまざまな波紋を痛みとして引き受ける地点に言葉を見いだしているということになる。

『カフェの木椅子が軋むまま』は、パリという言ってみれば近代以来の俗中の俗の憧れの中に身を放ち、そこに思慕を立ち上がらせることによって身一つ、吹きっさらしの現在を描いた歌集だと言えるだろう。松平のエンターテナーぶりに酔うちに忍び込んだ何かがキラリと痛い。