平原にぽつんぽつんとあることの泣きたいような男の乳首
山よ笑え若葉に眩む朝礼のおのこらにみな睾丸が垂る
見て見てと少女がひかる指を差す秋日のなかのお馬のpenis
〈寒気氾濫〉の特徴の一つと言っていいこうしたもの悲しく滑稽な男性の生と性は、今世紀の終末にある人間の哀しいほど素直な存在の裸体にもみえる。ことにも渡辺が自らの男性性にこだわり世界からの照り返しをこうした身体の部分に象徴的に受けていることに注目したい。ここに描かれた男性身体の部分は、なにか円滑に循環する生の流転からはぐれて奇異であり、意味と居場所を失って途方に暮れている。三首めの少女の無邪気は、その性の滑稽とあてどなさを指し、残酷でさえある。二首目の〈朝礼〉は、井坂洋子の詩、「朝礼」への返歌であろうか。「体操が始まって/委員の号令に合わせ/生殖器をつぼめて爪先立つたび/くるぶしにソックスが皺寄ってくる/日番が日誌をかかえこむ胸のあたりから/曇天の日射しに/ゆっくり坂をあがってくる/あの人たち」。井坂が描く少女の性は、うっとうしいほど濃厚な世界の息吹にむかってつつましくつぼんでみせながら、じつは暴力的な衝撃力を秘めている。隠されてきた性の力が朝礼という場違いな場面でちらりとその正体を少女等自身に自覚させてしまうところがショッキングだ。比較するとき、曝された性の意味は渡辺のそれとあまりにも違う。渡辺の描く男性性は余り物の自覚のようでもある。〈山よ笑え〉という呼びかけは、まるで舞台に出て引っ込みのつかなくなった俳優の棒立ちを思わせる。哄笑を乞いオトシマエをつけるしかないのだ。つまり、渡辺にとって男性という性はそのように途方に暮れているのであり、そのありようがこれほど率直にそして鮮明に見えてしまうところに彼の現代性がある。あらためて明るみで問われる男性身体は生と性へのいとおしみを滲ませながら、力の裏返しの含羞を帯びている。そしてかすかに贖罪の感情を引いている。
八月をふつふつと黴毒のフリードリヒ・ニーチェひげ濃かりけり
ではじまるこの歌集は、
どの窓もどの窓も紅葉であるときに赤子のわれは抱かれていたり
で終わる。特に直接の関連をもたないようにみえるこの巻頭歌と巻末の歌は、一巻を読み終えた者にはじつに濃密な応答に見えてくる。黴毒とひげの濃さで象徴されたニーチェの肖像は、彼の思想を代弁するかのように鮮やかな印象を伝える。渡辺にとってその思想が何であるかはわからないが、ニーチェは紛れもなく近代という時代の性格を象徴する思想家だろう。そして男だ。ニーチェの物言いの背後からちらりとのぞく自暴自棄の匂いは、男の性と近代の性格とをどこかで結びつけるものをもっている。渡辺は人の歩みの果てとしての現代の男性を晒し、その象徴的な肖像と一世紀を隔ててむきあう。時代を切り開く力の象徴であった男性性にまつわる贖罪の感情は、そこに生まれている。巻末の歌が暗示するのは赦されがたく、しかし赦されたい存在としての願望だろう。ここでの紅葉は、穏やかな調和や自然への回帰を意味するのではない。どこを向いても真っ赤な、淋しい怒りのような紅葉が迫るのであり、一つの許された形として、あるいは真っ裸な魂として赤子の自分がある。せめて小さなものに生まれ変わることで許されたい願望と、決して許されはしないだろう自覚とがこの万華鏡のような風景を造り上げている。この赤子には消化され昇華されたニーチェも宿っていないか。
ここで渡辺の世界をもう一面で特徴づけるのは、彼が抱かれる腕を夢想していることである。ここまで歩んできてしまった人間を抱く腕などもうないことを自明とするのが現代の若手の出発点であるなら、渡辺は何はともあれ小さなものとなった自らを抱く何かを感じている。自分を抱くのが暗黒の宇宙の沈黙であるとしてもそこから始まる何かを希求している。少なくとも世界は現代のこの地点からからみえるよりもっとずっと奥行きがあるのだということを知っている。それがこの歌集の力強さと明るさとなっている。頻出する樹木への心寄せ、アニミズム的な親和もそうした奥行きをかたちづくる特色のひとつだろう。
桐の花咲きしずもれるしたに来てどうすればわれは宙に浮くのか
アリョーシャよ黙って突っ立っていると万の戦ぎの樹に劣るのだ
これらは渡辺が打ち込んでそうした自然を愛する日常から生まれており、修辞にとどまらない奥行きをもつ。しかし、彼の樹木への思いがもし森への逃走であるならたちまち木々も精気を失うだろう。現代の森は現代に背を向ける者をかぎりなく受け入れる懐はもちえない。そんなところにアニミズムもない。渡辺は山歩きもするが、家庭人として社会人としての日常を背負う。職業人として、つまり役人として樹を切る許可を与えたり、もしかすると村を丸ごと水に沈める許可を与えたりしているかもしれない。的確に法に照らし合わせて判を押し、ボーナスの査定がちょっと良かったとき、妻子のことを考えて少しだけうきうきしたかもしれない。そんな渡辺松男を思い描いてみるとき、彼が生命に寄せる狂おしい親和が彼自身の罪の意識を出自としていることに再び気づく。彼自身の生の必死と木々の生のひたすらとはこの時対等に輝いている。樹木の生命を引き出す力は、もっとも反自然な現代の病の技である。深く現代を病む者ゆえに自然の深い懐に手が届くのだ。
一のわれ欲情しつつ山を行く百のわれ千のわれを従え
渡辺は力を詫びつつ力を放棄したわけでなく、森を恋いながら森へ逃げ込んだわけではない。彼は世界に対して侘びながら、しかし自然に対してさえ欲情が先立つ近代の男の末裔だ。久々に男を名乗るこの歌集に、さてどのように応えようか。