大辻隆弘歌集「抱擁韻」書評

— 短歌、肉の甘美と痛み —

 

さまざまなムーブメントが去った後で、短歌は今世紀をふりかえり現在を模索しつつその根拠を探している時期にあるだろう。そんななかで、大辻の第三歌集は厚みを加えた言葉とうねるような韻律、きらめきを消した文体によって際だって物静かな印象を与え、切実な問いを抱える。

 

 まぎれなく詩は軽蔑に値すと中上健次言ひて詩を捨つ

 

 疲れたる詩が戦争をこひねがふあるいはさうかも知れぬあるいは

 

 こうした歌には直接に詩への懐疑が表明され、短歌の存在価値を問うている。この歌では戦争をくぐった詩への懐疑が歌われているが、八十年代後半から今日までを作者として生きた大辻の目には、おのずとくぐってきた短歌ムーブメントへの問いが重なっているだろう。歌う根拠はどこにあるのだろうか、という懐疑と期待から言葉が発せられ、韻律のうねりを生んでいるのを感じのだ。

 

 たまかぎるホロコーストのほたほたと初潮の少女を覆ひたる幌

 

 泣かうごとある、とつぶやきたる女の声の深みのなかの九州

 

 一首目は、序詞からの連想。言葉の感触のみによってどこまでホロコーストを掴みうるのか、という試みと言えよう。ホロコーストに遠い自らの限界と短歌の限界とが深く認識され、そこから立ち上げられる映像が切実だ。二首目は、九州弁のニュアンスが新鮮で、物語はそこからはじまり永遠にその言葉のうちにある。現在、こんな言葉ならばリアリティーとなりうるのではないか、という手探り、いわば修辞の躰探しが自在に展開されている。言葉への真率な懐疑のみが言葉のてざわり、実感を生むのだという覚悟はまぎれなく大辻が今日の短歌の最前線に立つ一人であることを証していよう。また、次のような直情や感触が滲む歌も忘れがたく、言葉をいくたびも新鮮にしている。

 

 子を乗せて木馬しづかに沈むときこの子さへ死ぬのかと思ひき

 

 ホチキスが紙にくひこむ感触が春立つけさの指に伝ひ来

 

 地に落下してゆくまでの目くらみをうつとりとして言ふけれど死ぬな

 

 自分の生家に移り住むことになったという大辻は、短歌をその生家に重ねつつ運命に吸い寄せられてゆく詩形と感じている。「短歌的文体に殉じたい」という言葉は、その甘美に溺れる危険と紙一重ではないのか。しかし、それゆえの痛みをともなった最先端の問いとして私たちに差し出されていよう。