植松大雄論

— 鳥籠に棲んでいるもの —

メールマガジン「ラエティティア」

 

歌集『鳥のない鳥籠』書評

今日株価が1250円を割って最低価格を更新した。このところ新聞が届くと株価と為替市場の数字をまず見る。私は株も為替もほとんど知らない。もちろんそんなものは手にしたことがないし、これからも縁がないだろう。しかしどうしても目が行ってしまうのはそうした数字が魅力的だからだ。

 言葉が信じられなくなってしまい、数字の方が表現力豊かで正直だとしばしば思える。だからこういう情報も文学的に解釈して満足する。ああ、希望が見つからないんだな、と。じゃあ何で短歌なんか続けているのだ、と聞かれると、たぶん誰もがそれに答えるためにいますごく頑張ってるからだと答えることにしている。

 植松大雄もその一人だろう。言葉に重力や意味や思想を求めようとしなくなったとき、短歌のような様式はどこで持ちこたえるのか?植松は「鳥のいない鳥籠」なんだと言っている。それは無意味じゃないか、と言うのはおかしい。鳥のいない鳥籠は、ただの鳥籠ではなく、鳥が去ったあとの空虚と気配に満たされ、まだかすかに揺れている鳥籠だからだ。この歌集のどの歌もそんな余韻と気配を漂わせ、ありありと空虚を訴えている。

 

 鳥のない鳥籠となり永遠を日ごと夜ごとに味わうがいい

 

 この歌の命はたぶん結句の命令形にある。短歌という形式への、言葉への呪詛、そしてそれに自分が同化する切なさ。そんなものを感じて背筋がじんとする。この歌集に器用さだけを見てしまってはいけないと思う。言葉は空虚だ。それが前提となった時代を生きてしまった者がぎりぎりのところで空っぽを指さしている、その思いがけなく熱っぽい指にまずは止まってみたいと思う。ちょっと泣けてくるよね。

 

 愛なんかいらない!なくてかまわない!日本人は形からだ!