「短歌新聞」02.6
今野寿美の歌にいつの頃からか備わっているくすぐるような肉感、たぶんいたく古風な回路から滲み出てくる文語脈の今日的な面白さを興味深く思っている。今回の歌集ではタイトルの『め・じ・か』に大切に植えられた二つの「・」がそれだ。「めじか」ではなく「め・じ・か」であることによって生まれる小袋のような奥行き、くすぐるようなこだわりと肉の感触。現代短歌の無機的な明るさ、スピード感、そういう作品群を背景に、今野の言葉は電飾明るい水族館に産み落とされた魚卵のように切ない。
ひらめきて夏の歌から立ちあがる牝鹿め・じ・かと聴くが涼しさ
この歌は、言うまでもなく言葉に感応して作られている。牝鹿は、古くとっぷりとした文語の海から立ち上がり、澄んだ響きをもたらす。今野の歌はそういう意味では事柄ではなく言葉それ自体に住み着き寄り憑くことを根拠としているのではないか。それゆえ、事柄に属する日常の風景は「海は海どんみり重き東京の沖のかもめがそれでも鳴いて」のようにきわめて単純化され、感情はあらかじめ制御される。しかし、そうであればあるほど今野が深く根を垂らす文語脈は生き物として整流器をはみだすのだ。そのなまなましい抗争の有様こそが今野の現在だろう。そして次の歌のような静かでスリリングな物思いが生まれている。
前方後円、以降未踏のみささぎにあを鷺が首もてあまし飛ぶ