私の郷里は六十五歳以上の人口比率が八十パーセントを越えた、本当に小さな古い城下町である。ちょっと買い物に出ても闊達に歩く若い人の姿などまず見ない。古い町並みの低い軒に合わせるように腰をかがめた古い住人達。みな、ゆっくりと自分のペースで歩く。出逢った人とは懇ろな挨拶を交わし、半世紀昔の呼び名で消息を尋ね合う。「まあ、トモちゃん、あんた腰はどげえね?」と言う風に。またこれに屋号が加わることもある。「鍛冶屋のみっちゃん、どうしちょる?元気ね?」と言う風に。もちろん鍛冶屋などとうに廃業しているのだが、彼らの記憶の中でみっちゃんはいつまでも小僧であり、毎朝元気にフイゴを吹いている。時には半世紀以上前に滅びた提灯屋やら、下駄屋がそれに加わる。皆が皆の出自やら家系図を熟知していて、「ツカちゃんの嫁さんの在所の母(おか)さんの兄(あに)さんの家の裏の山火事」などが深い同情と鮮明な驚きを持って語られる。もちろん「嫁さん」はとうに七十を越えている。
この町に一人で棲む母からの電話はいつもこうした人々の消息が長々と報告されることになる。ある時、母がいつにない剣幕で夜中に電話してきた。言うまいと思ったがやっぱり腹が立つので電話したという。母の話はこうだ。今日、町のバス停でバスを待っていたら、久々にミドリちゃんのお母さんに逢ったという。珍しく自分から近づいてきたミドリちゃんのお母さんは、私が短歌をやっていることを知って驚いて報告にきたらしい。さらに、小学校の時はミドリのほうが国語の成績は良かったし、六年生の時にはカルタ取り大会で優勝したことなどを母に思い出させた。小学生の私はとうていそんな華々しい活躍などなくぼんやりした子供だった(そもそもほとんど記憶らしいものがない)。母にとって私はいつも口惜しい娘であり、幼稚園以来ずっと一緒のミドリちゃんとなにかと比較されるのが堪らなかったらしい。母によれば私が短歌などやるのは分不相応と言いたげだった、と。ほとんど涙ぐんで話しつづけ、怒りは収まらない。
私がカルタ取り大会で惨敗したのは(記憶にさえないけれど)三十年以上昔のことだ。幼稚園のころついにブランコが漕げなかったことも、合奏発表会で、独自のリズムでタンバリンを鳴らし続けたことも、歴史教科書のなかの出雲の阿国の図のように遠い記憶だ。しかし、母とミドリちゃんのお母さんにとってはそうではない。私は、どうしても聞いてみたくなる。
「ミドリちゃんのお母さん、あの帽子、被っちょった?」。母の怒りはちょっと躓き、「は?」「あー、被っちょった」と答える。私はああやっぱり、と思う。そして途端にあの古い町並みの匂いさえ思い出されて懐かしくなる。ミドリちゃんのお母さんは、いつも鳥の羽根飾りの付いた帽子を被っていた。とても古めかしいフェルト製で、幼稚園の入園式の写真にも、小学校の入学式の写真にも、ミドリちゃんの後ろに立つ小太りな彼女の頭にはいつもちょこんとあの古風な帽子が載せられていたのだ。あの帽子さえ無事ならあの町は消えてなくならない、と私は思う。
ミドリちゃんのお母さんは、とある武士の末裔の何かに当たるらしいが、だれも詳しいことは知らない。家系図が入り組みすぎていて、さすがに記憶力のいい城下町の住人にも覚えられなかったからだ。あるいは少しの意地悪が働いてあえてさっさと忘れようとしたのかも知れない。しかし彼女だけはその誇りを帽子に焚き込め忘れなかった。かくして帽子はその由来も忘れられながら、ミドリちゃんのお母さんを象徴するものとなり、さらにはミドリちゃんの活躍を保障する標となり、ついには町の風景の一部となった。私は、自分のしでかした数々の失敗はさっさと忘れてしまったが、授業参観やら運動会やらの特別な日に揺れていたあの帽子の羽根飾りは忘れない。
今にも消えてなくなりそうな古い町の寂しいバス停で老女二人が自らの誇りと意地を賭けて娘自慢をしている。彼女らにとって過去は過去ではない。私は今もぼんやりした小学生として田んぼのタニシをつついており、ミドリちゃんは利発な人気者として風を切ってグランドを走っている。母と、それからあの帽子を被ったミドリちゃんのお母さんがいるかぎり小学生の私は消えてなくならない。ミドリちゃんのお母さんは娘自慢を終えると、ひょっこりひょっこり歩み去ってゆく。新鮮な怒りに洗われて少し若返った母を残し、古風な帽子の鳥の羽根飾りを揺らしながら。