蟻とアメリカ

書き下ろし

 

蟻の動きを見ていると蟻の世界に吸い込まれそうになる。私はかつて怖ろしい蟻を見たことがある、と思う。

 私はカリフォルニア州中部、シリコンバレー近くの町に棲んでいた。今や世界の名門となったスタンフォード大学の膝元にあたる町は、瀟洒な雰囲気のダウンタウンと、そこを中心に山の手に散らばる高級住宅街とからなる。語学学校で知り合ったメキシコ人のモニカは、そうした住宅街の一軒にベビーシッターとして住み込んでいて、子供達が学校に行っている間を自由にしていた。気だてもよく、利発な彼女は、家族のような存在となっており、子供達は英語を覚えるよりはやくモニカの使うスペイン語を覚えた。モニカのラテン気質は実に屈託なく、陽気で現実的だった。そして何よりモニカには故郷から持ち込んだ強烈な家族愛があった。兄弟や母のことを語らぬ日はなく、家族で揃って食事するのは人間の基本だと訴え、子供達が熱を出せば学校を休んで付き添った。モニカはこの家の中心になっているようにも見えた。

 私はモニカが自由にしていたランチの時間にその豪邸に招かれた。トルティーアとトウモロコシのスープのランチを終えると、彼女は屋敷を自分のもののように案内した。カリフォルニアの家は豪邸といっても重々しくはない。明るく、ふんだんに使われた木の香りがする軽快な作りだ。モニカが私を驚かせようとして案内したのが地下のラグルーム。主が世界各国を旅して集めた高価な絨毯が丸めて棚に収められ、十畳ほどの部屋を一杯にしていた。その隣にワインの保存庫も見えたが、モニカはこれには興味がないようだった。それから二階のベランダの一角にしつらえられた大理石のジャグジー。そのベランダから庭のプールと、テニスコート、さらにその向こうの馬場に放たれた馬が二頭のんびりと草を食むのが見えた。

 どう?と言うようにモニカは肩をすくめてみせた。「これがアメリカの中流家庭よ」とモニカは言った。自慢しているのか皮肉っているのかわからなかった。私の目には何もかもが遠かった。馬たちが小さく小さく見えた。「でもね」とモニカが声をひそめる。「アナは離婚しそうなの」と言う。アナはこの家の女主人で小児科医だ。夫のデイビットも医者で、二人は年中世界を駆け回っている。子供達はだからモニカをあれほど慕うのだ。子供達は可哀想だがよくあることだ。ああ、そうなのか、と思ったがそれほど興味深い話でもなかった。身振り手振りでアナとデイビットの話を続けていたモニカが突然「Ouch!」と叫ぶと自分のふくらはぎをぴしゃりと叩いた。蟻だった。「どこから来たの?」モニカの話を遮って尋ねた私は、今度こそ深刻な気持ちになっていた。

 私のアパートでも油断するとすぐに飴色の大きな蟻が列を作った。白い壁に赤い紐を一本張り巡らしたような蟻の列が出来ている朝があり、私はそれが本当に嫌いだった。私のアパートは粗雑な造りで、蟻はどこからでも入って来た。だが、こんな完璧な屋敷に蟻がいるなんて。「いるわよ、たくさん。ほら」と、モニカが開いた食器洗い機には飴色の蟻がびっしりと固まっていた。大きな赤蟻は、さっき私たちが使った食器についた水を飲んでいるようだった。「これだから食器はすぐ洗わないと駄目なの」と蟻を払い落とそうとするモニカの腕にも蟻はゆっくりと移動してゆく。動きの鈍い、ねっとりと艶のある蟻が、台所の見えない隙間からさらに湧き出て来ていた。プールサイドにも、ジャグジーにも、ベッドルームにも蟻は出てくるのだろうか。アナとデイビットの隙間にも蟻が蠢いているようだった。

 モニカがいくら退治しても蟻はこの家の建つアメリカの大地からいくらでも湧き出して来るに違いない。やがてこの家は売られることになる。この家の本当の主は蟻だ。飴色の艶を持ち、殺されても殺されても湧き出す赤蟻は今やアメリカの大地全体に潜み、あちこちの壁に巣を作っている。明るすぎるアメリカの大地では見えないものが多すぎる。建物や木々の影さえ明暗の強いコントラストに支えられ、その境界を行き来する小さな生き物などとうてい見えないのだ。見えない蟻たちは無言で列を作り、追われても潰されても湧き出てアメリカ中に見えない者のための世界をつくる。

 ツインタワービルを壊し、ペンタゴンを潰したのも本当はこの蟻ではなかったのだろうか。