男の隠れ家

書き下ろし

 

私の密かな趣味の一つに住宅の広告を読む、というのがある。眺めるのではなく、しっかりと間取り図などを読むのである。中古物件には古ければ古いほど訳の分からない空間やら配置があって面白いが、概して最近の新築物件の間取り図は単調で面白くない。もっと言えば貧相でとうてい私の想像力をかき立てるような物件はない。マンションなら目の字型の部屋配置で、リビングが南に広く、あとは付け足しのような部屋が二つか三つ。一戸建てなら、一階にリビングと和室、二階に寝室が三つ。ほとんど余分な空間などはあり得ない。ポーチやテラス、デッキやらアルコープといったカタカナ空間は、要するに畳一枚ほどのコンクリートの出っ張りにすぎない。

 当然そこで営まれる生活も単調なものである。リビングでテレビを見るお父さんとお母さん。お母さんは近所に住む子供の同級生が学習塾に通い始めたらしいというビッグニュースをしゃべり、お父さんは新聞で囲った空間から聞かないための相づちをうつ。そこで見られているテレビの番組やら夕ご飯の内容まで凡庸で、私はうすら寂しくなる。シーズン中なら野球かサッカー。オフならビートたけしかダウンタウンの司会している番組。テレビの中だけでやたら笑い声がする。子供達は食事を終えるとさっさと自室に引き上げ薄い扉を閉ざす。食卓にはハンバーグとポテトサラダ。プチトマトの小さな蔕が皿の縁に残っている。

 ああ、この単調さは何なんだ! と怒っていたら今日、新築物件に凄い掘り出し物を見つけた。何と「男の隠れ家つき」。え、なになに、と広告に描かれている間取り図に顔を近づけるがそれらしい空間は見あたらない。もう飽き飽きした一戸建ての間取り、一階にリビングと和室、二階に三つの寝室、があるばかりである。間違いか?間取り図を見るのに慣れた目で五分ほども探索を続けた結果、ついに「男の隠れ家」は見つかった。何と屋根裏の二畳ほどの窓のない空間がそれらしいのである。確かに隠れ家だ。これじゃ見つかりっこない。そもそもそんな空間を物置と呼ぶ人は居ても部屋だと思う人はいないだろう。盲点だ。広告はこう謳っている。「ジオラマ創作に専念したり、自慢のコレクションをディスプレイしたり、趣味に没頭できる空間」。確かに。こんな空間じゃジオラマくらいしか置けそうにないし、趣味にでも没頭していなければ閉所恐怖症になってしまう。 

 しかしそんな風に思うのは私が女だからなのか。男ならそんな空間を喜ぶのか?そもそも世の中に「男の隠れ家」はあっても「女の隠れ家」は存在しない。欧米の建築でも小振りな書斎がDENと呼ばれて男の居場所ということになっている。DENは動物の巣穴のことも意味するから、やっぱり隠れ家だ。女には必要のない身を隠す空間がなぜ男には必要なのか?大きな謎にぶつかる。そういえばフセイン大統領もついこの前穴から見つかったばかりだし、オウムの麻原教祖も四角い隠れ家から引きずり出されたし、さらにはヒットラーも最後は穴に籠もって自殺した。麻原はともかく、フセインやらヒットラーは拳を振り回して演説し続け、男らしい男の典型として振り舞い続けた人物ではないのか。そういう人に限って穴が必要だというのはどういうことなのだろう。

 だいたい「男の○○」という形容詞がつくのは怪しいものが多い。「男の心意気」とか「男を見せる」「男になる」などという訳の分からない台詞はおおかた理不尽か非合理的な行動を正当化するために使われる。「ラスト・サムライ」か「ファイトー、一発!」の美学だ。美学が美学であるためには見てくれる人が必要だ。誰かがどこかで見ていて「あんたは男だ」と認めてくれることが必要なのである。誰も見ていないところで成し遂げられる崇高な善行は「男」のものではなく「人間」の美しさとして取り扱われる。「男」であることは常に見られ、承認され、励まされねばならないような脆い観念なのかもしれない。それなら少し納得できる。そんな危なっかしくて疲れる「男」をやるためには「隠れ家」が必要なわけだ。

 しかし、この怪しい男の隠れ家のある家は少なくとも単調ではない。有史以来の「男」がむんむん詰まっていて「俺は男だ!」と主張している。例えウルトラマンのフィギアを磨いたり、どらえもんシリーズを並べ直したりしていても、それは「男の隠れ家」で行われる神聖な儀式なのである。住宅メーカーには是非ともこういう怪しい空間を新築住宅に取り入れて欲しいものだ。例えそれが早晩物置になろうとも。